登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める
前回までのあらすじ
強い雨のなか結衣に導かれ、前列の柵へと進んだ匠。
構わずじっと見つめるアーサーに、何かを感じ取った二人でした…
(競馬小説「アーサーの奇跡」第86話 日本ダービー・本馬場入場)
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第87話
第87話 国家独唱
「(―もし、わたしにもお父さんが居たら…)」
結衣がまだ十一歳の頃、匠と出会ってからの半年は、抑え続けた感情のしこりと向き合う時間が多くなっていた。
「(男の子ってよく分かんないけど、お父さんが居れば違ったのかな…)」
飼育係をしている結衣が、ウサギ小屋でその世話をしていると
「―手伝うよ」
ふと声が掛けられて、見ると池が扉をくぐっていた。
「…ありがとう…。でもわたし、別にいいの…」
結衣は陰口を言われていた半年前から不信感もあり、クラスの男子とそれまで以上に、関わらないよう避け続けていた。
「遠慮するなって、クラスメイトだろ…?」
乾いた雑巾を手に取って
「あとこれか…?」
池がそうつぶやくと、餌の容器へと手を伸ばしていた。
「…」
結衣はどうしていいか分からずに、池の声に頷くと、無言のまま小屋裏のロッカーへ、餌袋を取りに歩いて行った。
「…」
袋を持った結衣が、そっと戸口から確かめてみると、池は真剣な顔で拭きながら
「よし、いいか…!」
目を輝かせていた。
「…」
悪気ない雰囲気に、取り敢えず結衣も池に近づくと、ペレットを出し、小屋の隅を指して
「あそこに…」
ポツリとつぶやいていた。
「よし…!」
池は得意な表情で、受け取った容器をその場に置くと、食べ始めたウサギに目を細めて
「かわいいな~!」
と見て喜んでいた。
「(なんか、似てる…)」
結衣は祭りの時の、匠の笑顔をふっと思い出し、金魚を手渡した時の匠の表情と重なるような気がした。
「…」
黙ったままの結衣に
「なあ三条…?」
池が話しかけると
「…お前、偉いよな。同じ係でもサボってるヤツもいるっていうのに…。絶対、サボったりしないしな…」
「え…?」
結衣がつぶやいた。
「あ…いや、その…。別に毎日おれも、小屋を覗いてるわけじゃないけどさ…。他のヤツがサボってる時も、お前がやってることがあったから…」
チラリと見た池の表情に、結衣は何も言えず、固まっていた。
「…」
ただじっと見る結衣に、池は焦ったように目を伏せると
「あれ…その靴。先っちょが緑じゃん。どういうこと…?」
不意に問いかけていた。
「…?」
それに首を傾げて
「苔かなあ…」
結衣がポツリつぶやくと
「ああ苔か…」
池がそう頷いて
「…じゃ、行くわ!」
突然、振り返った。
池は背中を向けたまま手を振り、何気なく小屋の扉を閉めると、かかとで戸口の付近をしきりに、何かを払うように去って行った。
「…?」
結衣が不審に思い、餌の袋を持って外に出ると、そこには池が払ったと見られる、苔と土が脇に散らばっていた。
「…」
結衣はその苔を見て
「(かわいそう…)」
ふと溜め息をつくと、池が一体何をしたかったか、益々よく分からなくなっていた。
「(男の子って、やっぱり分からない…)」
そう思った結衣の脳裏には、祭りの夜
「また来いよ!」
と笑った、匠の顔が思い出されていた。
「(匠くん…今どうしているかなあ…)」
結衣はそのあとで家に着くと、ひらひらと泳ぐ花びらのような、金魚に向かって尋ねかけていた。
「ねえプクちゃん…。もしお父さんがさ…今も生きてくれていたとしたらさ…。他の女の子たちみたいに、男の子とおしゃべり、できたかなあ…」
水槽でプクプクとゆらめく、金魚の尾びれがひらり舞っていた。
「沁みますね…」
そんな回想をする結衣の傘のなかで匠がポツリ、発走前の国家の独唱に、一人つぶやく声を漏らしている。
「結衣さん…?」
異変を察した匠に
「あ…はい、凄く素敵な声でした。なんだか別の歌みたいでしたね…!」
結衣は慌てて返事していた。
「本当に…。なんだか君が代とか、味わって聞いたことないですけど、こういう大きな舞台で聞くのは、中々いいもんだと思いました…」
「はい、本当…」
結衣が頷くと
「しかし最後の「こけのむすまで」って、苔が生えるまでってことですよね?苔ってなんかちょっと競馬場の、雨の芝生とも似てる気がするな…」
匠が芝を見てつぶやいた。
「匠さんは苔、どう思いますか…?」
結衣がふと匠に尋ねると
「ふふ!どうかな、考えたことないし…。でもふわふわしてて好きですね。結衣さんの馬の見方だって、ふわふわの毛ヅヤ、大事でしたしね…」
匠はふっと笑って結衣に、屈託なく答えを返していた。
「(変わらない…)」
結衣は匠の言葉に
「そうですね…」
そう言って頷くと
「(こけがむすまで…。ずっと匠さんと、ただ一緒に生きられる日が来たら…)」
目を細めて匠を見ていた。
「ザアアアア…」
そんな二人の耳に、強まる雨の音が打ちつけると
「よお…」
という声が雨に混じって、ノイズのように鳴り響くのだった。
「―…?」
匠がそれに気づき、隣の傘をチラリと見つめると
「―…!」
目を丸く見開いて、口を開け、ぽかんと固まっていた。
「…いいご身分だな。写真撮るために、彼女に傘まで差させているとは…」
結衣も隣の傘の男に、驚いて、その名前を告げていた。
「小川さん…」
鳴り続ける雨音に、二人がその場に佇んでいると
―只今から、現在の馬場状態の変更についてお知らせをします。只今から芝コースは不良。重馬場から不良に変わりました―
場内アナウンスが聞こえた。
「くっくっく…」
絶え間ない雨音に、ノイズのような笑いが入り混じる。
匠はカメラを握りしめたまま、そのざわめきに打ちつけられていた。
次回予告
小川の声に唖然と立ち尽くし、傘の中で目を丸くする匠。
小川はそんな匠に構わずに、唐突に質問をするのでした…
前回は:競馬小説「アーサーの奇跡」第86話 日本ダービー・本馬場入場
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり