競馬小説「アーサーの奇跡」第86話 日本ダービー・本馬場入場

登場人物紹介

上山 匠(かみやま たくみ)

当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る

三条 結衣(さんじょう ゆい)

匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う

荒尾 真凛(あらお まりん)

女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める

競馬小説「アーサーの奇跡」登場人物紹介

前回までのあらすじ

 

結衣の馬体の見方を聞きながら、アーサーのことを確かめる匠。

ライバル・ビッグツリーの風貌に、思わずシャッターを下ろすのでした…

競馬小説「アーサーの奇跡」第85話 日本ダービー・パドック

競馬小説「アーサーの奇跡」第86話

第86話 日本ダービー・本馬場入場

 

―強い雨のなか栄冠を目指し、18頭が顔を揃えました!今年の日本ダービーは何か、嵐の予感が漂っています!6000頭の世代の頂点は一体どの馬が輝くでしょう!出走馬の紹介を致します!―

 

「ワアアアアッ!」

実況の声にスタンドが沸いて、匠と結衣はモニターを見つめた。

 

―まず1枠1番、ビッグツリー!無敗で皐月賞まで5連勝!既に風格漂うその馬体、威圧感を持つ大樹(たいじゅ)がその根を競馬界にしっかりと下ろします!雨も大樹には恵みそのものか!鞍上も天才の滝沢駿、まさに完全無欠のコンビです!―

 

「ドオオオオッ…!」

実況の声にスタンドが沸くと、匠は結衣にひとことつぶやいた。

 

「なんか怖いくらいの人気ですね…」

「本当に…」

結衣もつぶやくと

「やってやれ~!この雨でもなんでも、お前がぶっちぎりに強いからな~!」

「楽勝だ~!皐月賞のときにも、5馬身ぶっちぎって勝ったからな~!青葉賞組は勝てないから、お前意外、勝つ馬はいねえよ~!」

周囲からも熱気のこもった、歓声が絶え間なく聞こえていた。

 

「(凄いよな…。いつも期待通りに、人気を背負(しょ)って勝ち切れるんだから…。それに父さんが言ってたけど、青葉賞からの勝ち馬はいない…。天気も全然違ってるし、これじゃあ差が詰まるかも分からない…)」

匠は歓声を聞きながら、カメラを握りしめて思っていた。

 

―3枠5番はロングフライトだ!前走青葉賞惜しくも2着!しかしこの枠は絶好枠です!切れ味殺がれる重い馬場のなか、まんまと逃避行を果たせるか!鞍上は勝負師、伊達の騎乗だ~!―

 

「ワアアアアッ!」

次々に返し馬に出る馬が、実況の声に見送られていく。

 

「行っちまえ~、伊達!こんな馬場だから後続も脚は切れないはずだ~!お前が逃げればビッグツリーでも、そうそう捉まえられないだろうよ~!」

ロングフライトもオッズからは3番人気と高評価を受け、スタンドの声もかなり沸き立って、人気が窺える勢いだった。

 

「ロングフライトも人気ありますね…。やっぱりあんな逃げはなかなか…」

匠がポツリ漏らしていると

「そうですね…。雨、どうなるんでしょう…。まだまだ全然、止みそうにないし…」

結衣がスタンドから空を見て、心配そうな声で返していた。

 

「雷鳴ってて、傘が無い限り、この雨じゃカメラマンも出られない…」

そんな匠の声に頷き、結衣が匠を見て問いかけていた。

 

「…行きましょう?」

「…え?」

結衣がスタンドの人混みを避けて、雨に向かってまた傘を開くと

「匠さん…」

その手をふと差し伸べて、前に出るよう匠を促した。

 

「でも、前列まで距離がありますし…。せっかく濡れないで済んだのに…。これじゃあさすがに、濡れちゃうかも…」

そんな匠にすかさず結衣は

「いいですから…。それよりも匠さん、カメラ内側に抱えてください…」

そう言うと結衣は手を握って、傘の中へと匠を引き入れた。

 

「あ…」

匠はそんな結衣の為すがままに、傘の中へと一歩を踏み出すと、握った手の温もりに誘われて、一歩ずつ前に歩き出していた。

 

「大丈夫…。前列が空いてます。さっきと同じふうにやってみれば…」

結衣は顔を真っ赤にしながら、じっと前を見つめて歩いていた。

 

「すみません…。こんなにしてもらって。おれは結衣さんを助けてないのに…」

つぶやいた匠のひと言に

「そんなこと…。わたしこそ本当に、ずっとずっと助けられてきました…。だからわたし、役に立ちたくて…」

結衣は不意に視線を落とすと、目を潤ませて匠に返事した。

 

「…」

匠は結衣の声に、様々なことを思い浮かべたが

「(結衣さんはきっと感謝の気持ちが、何よりも強い人なんだろうな…。せいぜいおれがやったことって、写真の仕事、教えたくらいだし…。結局、それも教えた後は自分が助けてもらってるわけで…。こうやって感謝ができるから、結衣さんは美しい人なんだな…)」

匠はただ耳を赤くして、結衣の言葉に思いを馳せていた。

 

「全然です…。おれなんか結衣さんに、いつもいつも助けられっぱなしで…。きっといつか今より大人に、しっかりした男になりますから…」

匠はつい何も意識せず、ふっと胸の内を打ち明けていた。

 

「(あ…!)」

匠が不意にそのことに気づいて、慌てて補足しようとしていると

―7枠13番、テンペスター!皐月賞2着から参戦です!前走勝ち馬ビッグツリーには5馬身差と悔しいところでした!しかし今回は得意の重馬場!名前通り嵐を巻き起こすか!鞍上には十勝嵐太郎(とかち らんたろう)です!―

大きな実況の声に紛れて

「すみません…深い意味はないんです」

そう言った声が掻き消されていた。

 

「―…」

結衣は消される前の、匠の声にふっと立ち止まると、匠に振り向き、ふと顔を見上げ

「匠さん…」

真っすぐに見つめていた。

 

「ドッドッド…」

早鐘のように打つ心臓の音に思わず匠は、唇を噛んでふっとうつむくと

「(どうしよう…)」

じっと立ちすくんでいた。

 

「(こんな状況で、発走の前に、まるで告白みたいなことをして…。これじゃせっかく善意でおれを、傘に入れてくれたのに悪すぎる…)」

ぎゅっと目を閉じている匠に、結衣は穏やかな声でつぶやいた。

 

「匠さんは…そのままでいいんです…」

結衣がつぶやくように告げると、匠は何も口に出せないまま、再び結衣のことを見つめていた。

 

「―…」

結衣は微笑んだまま、匠の視線を受け取っていたが、不意に涙がその目にあふれると、きらきらと一筋に落ちていった。

 

「え…?」

匠がそれを見てつぶやくと、結衣も驚いてすぐに顔を伏せ、焦ったように傘を揺らしながら、こぼれ落ちる涙を拭っていた。

 

「やだ、わたし…」

ドキンと胸が鳴って、匠が

「あの、結衣さん…」

とつぶやくと

―さあ最後の優駿登場です!地方佐賀から飛び出した英雄、青葉賞では驚愕の切れ味!荒尾真凛とのコンビで今回、中央の制圧に挑戦です!アーサー王の旅路は大外の8枠18番のスタートだ!捲土重来(けんどちょうらい)、王座に君臨か!戦いの火ぶたが、今切られます!―

「ワアアアアッ!」

アーサーを呼ぶ声が聞こえてきて、結衣ははっと後ろを振り返った。

 

「…匠さん!」

見ると雨に濡れながら、アーサーがそこに立ち尽くしている。

 

匠と結衣はその目に吸い込まれ、ただじっと、そこで見つめ合っていた。

 

「―…」

外柵に隔てられ、距離は数メートルは開(あ)いていたが、まるでその柵も払われたように、二人をアーサーがじっと見ている。

 

馬上の真凛も赤い傘を差す、二人を見つめ、コクリと頷いた。

 

「あ、ええと…」

匠と結衣がすぐに、それに気がついてコクリ頷くと、突然雷が強く光って、アーサーはその空を見上げていた。

 

「(そういえば…。アーサーの父親は、雷に打たれて死んだんだって…。父さんが確か言ってたよな…。大丈夫かな、動かないけど…)」

匠の心配も気にせずに、再びアーサーが二人を見ると、ブルルッと鼻を鳴らしてくるっと、待機所の方へと走っていった。

 

「なんか今…。目が合いましたよね…。赤い傘が気になったんでしょうか…」

結衣に告白をしようとして、言いかけたことも忘れた匠に

「そうですね…。でも、そうじゃないような…。もっとあったかい感じでした…」

結衣はそっと胸に手をあてて、匠の問いかけにつぶやいていた。

 

「そうですね…」

匠も結衣の声に、頷いてアーサーの方を見ると

「(頑張れって…。言われている気がした…。このあと、何もかも変わるから…)」

匠は雨を弾いて走る、アーサーの背中をじっと見ていた。

 

次回予告

 

雷雨のなか、スタンドに染み渡る発走直前の国家独唱。

結衣は匠のことを見つめながら、昔のことを思い出すのでした…

 

次回競馬小説「アーサーの奇跡」第87話 国家独唱

前回は:競馬小説「アーサーの奇跡」第85話 日本ダービー・パドック

はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり

*第3巻は1話分先行!読んで体験する競馬予想

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