登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
小川(おがわ)
謎の男。小倉で登場。匠の前に突然現れる
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める
滝沢 駿(たきざわ しゅん)
男性騎手。35歳。数多の名馬を知る天才
前回までのあらすじ
ロングフライトと伊達の逃走に、決意を固めて話し出す匠。
小川の嘲るような眼差しに、匠は臆さず尋ねるのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第93話
第93話 精密時計
「(止まったわ…)」
アーサーの鞍上で、真凛はロングフライトを見つめた。
「…」
隣で同じように、駿も無言で位置を測っていた。
「(滝沢さんは全く動かない…動き出すのを待ってる感じだわ。前回の時もちょうどこの場所で、ロングフライトは息を入れたけど…)」
独走状態になっているロングフライトの位置を測りつつ、真凛が駿をチラリとうかがうと、視線を戻し、リズムを整えた。
「…」
駿はまだ動かずに、じっと前を見つめるだけだったが、真凛もそのままじっと動かずに、前半のペースを考えていた。
「(65…。それとも66?馬場が相当緩い感じだけど…。この分だとロングフライトは、62秒くらいの感じかな…)」
前を行くロングフライトとの距離を頭に入れながら真凛は、前半1000mを通過した時点の秒数を考えていた。
「(前回からは相当遅いわね…。こうなったら我慢比べかも。切れ味勝負にしたかったけれど、仕掛けは早めた方が良さそうね…)」
真凛はアーサーの鞍上で、再び駿をチラリとうかがった。
「(滝沢さん…。いま日本で一番、ペース判断が得意なジョッキー…。こんな馬場だからこの人の横は、きっと意味のある場所になるはずよ…)」
真凛とアーサーは変わらずに、ビッグツリーと並んで駆けていた。
―さあいまビッグツリーとアーサーが、1000mを通過して行きます!先頭との差は20馬身ある!ロングフライトの独壇場です!―
「ワアアアアッ…!」
スタンドは実況の声と共に興奮状態が続いていたが、匠の周りでロングフライトの応援が更に沸き立っていった。
「いいぞ伊達~!すっげえ走りだぞ~!そのままどんどん引き離して行け~!」
「いや溜めろ~!リードは充分だ~!末脚残して少し溜めて行け~…!」
様々な声が聞こえる中、大映しになるロングフライトに、場内からも興奮の声音と実況の声が降り注いでいた。
―強心臓、伊達!この不良馬場で前走再現を果たしています!一か八かの博打に出ましたが、後続もやや息切れしています!後方で後れをとった各馬が、早くも脱落し始めているぞ~!―
画面では追い切れないくらい長い隊列が映し出されると、既にスタミナを消耗している何頭かが画面から出て行った。
「なんて逃げ…」
ポツリと言う匠に
「―…」
結衣はコクリ頷くと、小川と同様、押し黙ったまま、ターフビジョンに視線を馳せていた。
―2番手を進むビッグツリーとの馬体をぴったり併せるアーサー!人気3頭が揃って前目の位置取りで競馬に臨んでいます!しかしロングフライト突き放す!この馬に馬場は関係ないのか~!―
「ワアアアアッ…!」
益々ロングフライトに対する逃げ切りの期待が高まってきて、匠はとっさに
「(大丈夫かな…)」
と言いそうになったのを押し殺した。
「(いやだめだ…。また結衣さんの前で、弱音なんか吐き出すところだった…。今日は絶対、何があっても、弱音だけは吐くわけにはいかない…。信じるんだ、何が起こっても。きっとあの位置もいい所なんだ…)」
匠は敢えて並んで行った、真凛の判断に懸けるのだった。
「正確だ…」
そんな匠にポツリ、低い声が隣から聞こえると、匠はとっさに
「え…?」
と隣の、黒い傘の男を見上げていた。
「13秒…。多分、それくらいだな。滝沢がずっと刻んでいるのは…」
つぶやいた小川のひとことに
「小川さん…。それは何のことなのか、良かったら教えてもらえませんか…?全然、意味が分からなくって…」
匠が率直に問いかけた。
「匠さん…」
そんな匠を見つめて、結衣がチラリと小川をうかがうと
「…」
一瞬押し黙って、つぶやくように小川が切り出した。
「13秒…。1ハロンのタイムだ。滝沢はずっとそれを守ってる。ヤツの体内時計は正確で、精密機械と言っていいほどだ…」
その声に匠は平日の、テレビの話題を思い出していた。
「―おう匠!ちょっとこっち来てみろ。今面白い特集やってるぞ!」
ダービーではどんな髪型で、結衣と一日過ごすことにするか、一人洗面所の鏡の前で、匠が悩んでいるときであった。
「もう、なんだい…?」
善男の声を聞いて、匠が居間にテレビを見に行くと、そこにはダービー特集に映る、滝沢駿が姿を見せていた。
「ほら見てみろ、滝沢が出てきたぞ!レアだよな~、番組に出てるのは…!」
そこではビッグツリーのことや、これまでの実績が語られたが、匠はそのなかで撮影された実験企画に釘付けになった。
―滝沢さん、それでは15秒が経ったらスイッチを押して下さい!―
ストップウォッチを駿に握らせて、体内時計をテストするという。
合図がすると画面に何秒か、そのタイムが表示されるのだった。
「(こんなの、ぴったり当てられるかなあ…)」
匠が首を傾げて見ていると
「カチッ…!」
と指が動いた瞬間に、匠の考えは改められた。
―ああ~っと15、00秒!凄い、小数点まで揃ってる…!―
驚いたレポーターの声に、匠はただ釘付けになっていた。
「はっはっはっ…滝沢は凄いなあ!精密時計と言われてるわけだ…!」
善男が嬉々とするその横で、匠はじっと目を丸くしていた。
「(―そうだった…。本当に凄かった…。あんなに正確に分かるとは…)」
そんなことを思い出しながら、匠がはっと我を取り戻すと、隣に立って静かに傘を差す、小川にひとつ、頭を下げていた。
「小川さん…ありがとうございました…」
匠がつぶやいたその声に
「…」
小川は何も言わず、ターフビジョンをじっと見つめていた。
「…」
匠が会釈をして、再びターフビジョンに振り向くと、小川がふっと笑みを浮かべながら、画面に向かってポツリつぶやいた。
「やる気だな…」
状況を把握して、小川がじっと画面を注視する。
芦毛の馬がそこに映されると、雨音が勢いを増すのだった。
次回予告
中団待機の列を抜け出して、アーサーに迫り来るテンペスター。
一方真凛は位置を保ちつつ、アーサーの意思に委ねるのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり