登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
前回までのあらすじ
胸の高鳴りを抑えようとして、咄嗟に話題を作り出す匠。
その真相に迫る推理を聞き、結衣の胸もまた高鳴るのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第84話
第84話 鼓動の雨
雷雨に煙る東京競馬場。
パドックでは写真を写している匠のシャッター音を聞きながら、赤い雨傘を手に持った結衣が、10年前に思いを馳せていた。
「―お母さん、プクちゃんにごはんあげた?」
学校から帰ってすぐの結衣に
「いやまだよ。結衣、あげたいんでしょう?」
春が微笑みながら返事をした。
「うん!プクちゃん、今日帰ったらすぐに、ごはんあげるって約束したんだ!」
「そうだったの…。でも金魚だからね…。約束したって分かるのかしらね…」
嬉しそうに餌をやる結衣に、春は微笑みながら答えていた。
「分かるよ。ほら、よく食べているでしょう…?もう家族の一員なんですから…!」
結衣が得意になって話すと
「そうね…。実際、よく食べるわよね…。どれくらい生きられるのかしら…」
春もそんな結衣に頷いて、水槽の中を覗き込んでいた。
「ずっとずっと、長生きしてくれるよ!わたしずっと、大切にするからね…!」
結衣は春にそう伝えながら、金魚ににっこり、笑いかけていた。
「お母さん、明日も帰ったらすぐ、わたしがプクちゃんにごはんあげるね!」
「はいはい。もうすっかりプクちゃんね…。でもきれいだし、元気でいいわね…」
結衣が放課後のことを言うと、春も微笑みながら返事をした。
「(プクちゃんのおかげ。なんかお母さん、プクちゃん来てからちょっと元気だし…。それにこの水槽もとっても、お水張ってるときれいでかわいい…)」
結衣は祭りのあとでもらった匠の金魚を大切に持って、帰宅すると早速春が使うガラス製のボウルに放(はな)っていた。
「―どうかしらね。今うちにあるものは、このボウルくらいしかないんだけど…。ガラス製だからなんだかもう、元々この為っていう感じね…」
「わあい!これ、すっごくかわいいよ!良かったね、プクちゃん。お家できて…!」
結衣が嬉しそうに伝えると、春は眉を下げながら返事した。
「仕方ないわね、それは結衣にあげる。それからもう、名前も考えたの?」
春が結衣に改めて尋ねると
「うん、プクちゃん!プクプクッてしてるし…!」
結衣が弾む声で微笑んだ。
その日以来、結衣は毎日餌を切らすことなく世話を続けていた。
「―プクちゃんくれた子、元気かしらね…」
時々春が話題にして言うと
「うん、きっと…」
結衣はそう返事して、匠の言葉を思い出していた。
「―また来いよ」
結衣は一日たりと、その言葉を忘れた日は無かった。
「じゃあね、結衣…」
そんなある朝のこと、仕事に出かける春を見送って、結衣は再び匠に会いにいく決心を固め、家を出て行った。
「行ってきます、プクちゃん。またあとでね」
水槽の中に一人つぶやくと、電車に乗って府中の駅で降り、まずは大邦神社へと向かった。
「どうかお店が見つかりますように…」
そう願いを掛けて振り向くと、参道の脇道から抜け出して、そこからまず散策を開始した。
「(なんだろう、あれ…)」
歩き出してすぐ、大きな屋根を右手に見つけると、結衣は立ち止まり、首を傾げつつ、自分なりに推理を展開した。
「(大きな屋根…。でもあれは違うなあ…。商店街がある感じじゃないし…。やっぱり今度はこっち行こう…)」
それが競馬場の屋根だとは、この時結衣は知る由(よし)もなかった。
大きな屋根の見慣れぬ光景に、商店街は無いように思われ、結衣は路地から駅へと抜け出すと、案の定、賑わう道に出ていた。
「(上山匠…。写真屋さんの子…)」
そう思いつつ歩いていると、何軒か先にふとレンガ調の、レトロモダンな建物を見つけた。
「(あ、かわいい…!あれ、何のお店かな…?)」
結衣が見つめながら近寄ると、黒い看板に金で象(かたど)った、「上山写真店」の字を見つけた。
「(上山写真店…!きっとここだ。中の女の人、お母さんかな…?)」
結衣がガラス越しに近づいて、中の様子をそっと確かめると、そこでは真弓が一人忙しく、接客する様子が見られていた。
「(今ならもっと近くで覗いても、いきなり匠くんに会わないよね…?)」
結衣が近くに寄ると突然、後ろから
「どしたの!?」
と声がした。
「(ドッキン…!)」
結衣が慌てて振り向くと、女の子がじっと結衣を見つめて
「あ、あのその…」
そう言いかけた結衣に、はっきりした口調で尋ねていた。
「匠ちゃんの、友達のお姉ちゃん?匠ちゃんならまだ帰ってないよ。飼育係の仕事やってるから、掃除終わんないと帰れないって!ウサギ小屋でさっき会ったもん!」
黄色い帽子を被っている、結衣よりも背の低い女の子が、くりっとした瞳で見つめながら、元気いっぱいに話しかけている。
「(飼育係?わたしとおんなじだあ…!)」
結衣が頬を赤らめて頷くと
「(ああ、だめだめ…。冷静にならなくちゃ。考えてみたら場所は分かったし、これでいつだって来られるんだから…。ちゃんと心の準備してから…)」
胸の中で整頓していた。
「そうなんだ…。うん、どうもありがとう。それじゃあ今日はもう、やめとこうかな…」
結衣はただお礼を言うために、休校日を利用して来ていたが、地域の違う匠は変わらずに、いつも通り、学校に行っていた。
「(うちの学校は休みだったけど…。運動会の振り替えだもん。匠くんが同じ日に振り替えで、休みになるとは限らないもんね…。それに何かお礼のお菓子か、お手紙とか、あった方がいいかも…)」
結衣がそう思って頷くと
「帰るんだ?じゃあ今度来るときは、こっちから行った方がいいかもよ?匠ちゃんのうち、家のひとたちは、いつもこっちから出入りしてるから」
女の子は結衣に伝えると、脇道の方を指し示していた。
「ありがとう。それじゃ、今度そうするね…」
結衣が女の子に微笑むと
「わたしはあっちのパン屋さんだから、パン買いたいときはうちにも来てね。うちのパン、すっごくおいしいから!」
女の子が結衣に告げていた。
「うん、約束…」
結衣がそう微笑むと
「うん!」
女の子もにっこり笑って
「それじゃあね、ありがとう…」
そう言って、結衣は背を向けて歩き出していた。
「それじゃあね~!」
手を振る女の子に、結衣もまた振り返って応えると
「(あれ…?)」
その背後から現れた、少年の影に目を凝らしていた。
その少年が女の子にポンと、帽子を叩いて挨拶をすると、女の子が
「匠ちゃん!」
と言うので、結衣は慌てて物陰に隠れた。
「あれ…?さっき話していたお姉ちゃん、一体どこにいっちゃったんだろう…。匠ちゃんにいま、会いに来てたのに…」
女の子がそう声を出すと
「え?そうか…誰だろうな?いったい。まあいっか…。それより奏お前、今度は花火大会に行くとき、サンダル履いてくるのはやめとけよ?去年は転んで頭を打ったし、また怪我するのはお前も嫌だろ?」
匠が女の子に対して、釘を刺す声が結衣にも聞こえた。
「うるさいなあ…。そんなの分かってるよ。匠ちゃんだって学校行くとき、車避けながらドブに落ちたじゃん!」
「それはだなあ、お前が危ないから、避けようとしたらああなったんだよ。それとこれを一緒にするなよなあ…?」
奏と呼ばれている女の子と、匠がそんな会話をする傍(そば)で、結衣は
「(なんで今、隠れたんだろう…。お礼だけでも言えば良かったのに…)」
どきどきと胸を鳴らしながら、物陰で一人、立ちすくんでいた。
「(ああどうしよう、お家、入っちゃった…)」
脇道に消えた匠を見て
「(でもでも、なんだか緊張しちゃって…。きっとうまく言えなかったよね…)」
結衣はため息を吐き出しつつ、胸をぎゅっと、両手で抑えていた。
「(結局お礼は言えなかったけど…。でもやっぱり、お菓子も必要…。あとそれと、お手紙用意して…)」
奏と呼ばれる女の子が、すっと脇から通り過ぎて行くと、それを確かめた結衣は歩み出て、店に向かって頭を下げていた。
「(ごめんなさい。今日はもう、帰ります…)」
胸の中で一人つぶやくと、どんなことを手紙にしたためるか、駅へ向かいながら考えていた。
「(ありがとう…。久しぶり…。覚えてる…?う~ん、書き出しもなんか難しい…)」
気がつくとホームで待っていた、電車もゆっくり動き出していた。
「(…もっと女の子らしくなりたいな…)」
結衣は一人電車に揺られて、窓に映った影を見つめながら、とくんと鳴る胸を確かめていた。
それから10年―
「ザアアアア―…」
強い雨が降りつける府中では、結衣が持つ赤い雨傘の中で、パシャパシャとシャッターを鳴らしながら、匠が写真撮影をしている。
「(あれから何度も会いに行ったけど…。どうしても勇気が出なくって…。でもようやく匠さんのこと、近くで見られるようになりました…)」
結衣はそれまでを思い出して、潤んだ目で匠を見つめていた。
「(―いまわたし…。一緒にここに居ます…)」
結衣は目を細めて降りしきる、雨と胸の鼓動に打たれていた。
次回予告
匠の後ろで傘を差しながら、ライバルたちの仕上がりを見る結衣。
結衣のポツリとつぶやくその声に、匠は固唾を飲み込むのでした…
次回:競馬小説「アーサーの奇跡」第85話 日本ダービー・パドック
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり