登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
前回までのあらすじ
ライバル・ビッグツリーの調教に、唸るような態度を見せる善男。
加速ラップや調教過程など、知見を深めていく匠ですが…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第76話
第76話 日本ダービーの朝
「あの、わたし…その、好きな人がいて…」
結衣は玄関でうつむきつつ、ポツリと春に向かってつぶやいた。
「そう…」
春は結衣の声に頷いて、ひとことだけ、小さく答えていた。
「わたし今日…。いつもより帰るのが、少し遅くなるかもしれないから…。お母さん…夕飯食べててね…」
そう見上げた結衣の表情に
「頑張って…」
春は頷きながら、ひと言だけ、ポツリと返していた。
「いってきます…」
そう言った結衣を見て、春はコクリ頷くだけだったが、春の顔を見て結衣は少しだけ、勇気が湧いてくるような気がした。
「(匠さんに…今日こそ伝えなくちゃ。わたしの気持ち…。アーサーが勝ったら…)」
結衣はその胸を抑えながら、最寄り駅へと一人、歩いていた。
「(お母さん、寂しくならないかな…)」
電車の中で想像した結衣は、春の頷いたあとの表情を、過ぎゆく車窓の景色に重ねた。
―府中~。府中~―
車掌のアナウンスで、電車のドアが一斉に開くと、結衣はしっかりと一歩踏みしめて、匠の待つ写真館へ向かった。
一方そのころ匠は善男と競馬談義に夢中になっていて、青葉賞当日と同じように、アーサーの勝機をうかがっていた。
「ねえ父さん、アーサーが勝つとして、どんな展開が理想的かなあ…」
「うんそうだな…。やっぱり青葉賞の、末脚温存しかないかもなあ…」
善男は目を閉じ、あごに手をあてて、ふと考え込むようにつぶやいた。
「でもそれじゃあ、あのビッグツリーには、最後に追いつかないもしれない。ロングフライトも逃げるだろうから、捉まえるの、簡単じゃないよねえ…?」
匠も善男にそう尋ねながら、同じように手をあててうつむいた。
「ふっふっふ…。お前もいつの間にか、展開なんて言うようになったか。ああそうだ。その隊列になれば、まず間違いなく差すことになるな。問題は今の馬場とペースだが、ロングフライトがどう出るかだよな…」
善男は匠を見て笑うと、満足そうにコクリと頷いた。
「ロングフライトの伊達さんてかなり、思い切りのいいジョッキーなんでしょ?だったら今回緩いペースでは、逃げて行かないと思うんだけれど…」
「ほう、段々詳しくなってきたな。そうだな、父さんもそう思ってる。それにダービーはCコースになり、最初の開催ということもある。イン前有利は基本になるから、やっぱりどこまで行けるかだろうな」
善男は匠の声に対し、納得したように頷いていた。
「Cコース?それって何かあるの?」
疑問に思い問いかけた匠に
「ああ。これは移動柵ってやつだが、競馬はインが傷みやすいからな。それをカバーして、きれいな芝生でレースを開催し続けるために、段々コースの外側に柵を移動して走りやすくするんだよ。Aコースは移動をしないんだが、開催が進むとBからⅭへ、段々コースの外側へ柵を少しずつずらしながら使うんだ。先週オークスのBコースではもう柵沿いが傷んでいたけどな、今週からCコースになるから、柵沿いの芝がきれいになるのさ」
善男がさらりと説明した。
「へえ父さん、ほんとに詳しいねえ」
「まあそうだな。馬場が分からなければ、予想の精度は高まらないしな」
善男が得意気に頷いた。
「そんなに馬場の差ってあるものなの?」
「ああ、そうだ。競走馬は毎回、コンマ何秒を競ってるからな。脚が取られる荒れた馬場なんかは、騎手も嫌がって使わないほどだ。トップスピードが出しにくいからな。インは距離ロスがなくて有利だが、段々そこに傷みが出てくると、外から差してくる馬が有利になるほど脚が取られるものなんだ。だから先週Bコースの際は、外差しが決まりやすかったけどな、今週Cコースに替わればもう、イン前有利が普通になるのさ」
善男の言葉を聞き匠は
「なるほど…」
コクリと頷いていた。
「まあこれも開催時期によっては単純にそうとは言い切れないが、少なくとも基本的な理論は、大きく間違ってないところだな。…ところで、競馬の話はいいけど、お前は今日、勝負するんだったな」
「うん…。そうだね。アーサーが勝ったらさ、結衣さんにちゃんと告白してくる。それで父さんに先に言うけれど…」
「うん、なんだ?」
善男が聞き返した。
「もし結衣さん、オーケーじゃなかったら、気まずくてバイト辞めちゃうかなって…。おれの個人的な感情で、迷惑かけることになっちゃうから…。その、だめだったら本当、ごめん…」
匠は告白の結末が、店の運営に影響するのを、申し訳なさそうに話しながら、不安気な顔で、ふっとうつむいた。
「―なあ匠。本当、ありがとうな」
善男が匠にポツリ言うと
「え…?」
再び善男を見た匠に、善男がひとつ頷き、切り出した。
「お前が産まれて、こうして育って、気がついたら競馬の話してて。父さんを父さんと呼んでくれて、本当にありがたいと思ってる。それに父親にここまで話せる息子だってそうはいないだろうし、お前はほんと、母さんのおかげか、素直に育ってくれたと思うよ。失敗がなんだ、結衣ちゃん相手だ。賭ける価値は十分にあるだろう?」
善男の言葉に匠はコクリと
「うん…」
と頷きながらつぶやいた。
「今日の天気なら良馬場だろうが、青葉賞の再現ができるかだ。最後の直線、声を張り上げて、諦めないで応援したんだろ?今回もアーサーと同じように、しっかり最後まで頑張ってこい…!」
善男はそう言うとふっと笑って、匠の肩をポンと叩いていた。
ちょうどそこに
―ピンポーン―
と音が鳴り、匠が慌てて扉を開くと、強まる陽射しの中に佇んだ、結衣が匠を見て微笑んでいた。
次回予告
二人きりの時間を過ごすことが、最後かもしれないと思う匠。
一方結衣は匠の髪型がいつもと違うことに目が留まって…?
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり