登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
福山 奏(ふくやま かなで)
匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘
前回までのあらすじ
ビッグツリーの最後の末脚に、崩れ去った優勝への確信。
アーサーの敗戦を受け匠は、その場で一人立ち尽くすのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第42話
第42話 敗者
「(ああ違う、どうもしっくりこないな…)」
匠はメールを打ち直していた。
帰宅中の武蔵野線の車内。
今日一日の結果の報告を結衣にするためにメールを打ったが、どうにも言葉がはっきり浮かばず、匠はそのことに戸惑っていた。
「(アーサーが負けるなんてこれまでは、想像の中でしかなかったけど…。こうしていざ本当になっちゃうと、どう伝えていいか分からないよな…)」
匠はアーサーの敗戦に現実感が乏しくなってきて、西日の射す武蔵野線の中で、夢とうつつとが混在していた。
「(考えてみれば今までこうして、負けた状況を知らなかったけど、大切な馬が負ける経験を沢山の人がしてるんだろうな…)」
匠はアーサーが勝ってきたレースで負かした馬たちのことや、それを応援するファンの気持ちが、身に染みて分かるとも感じていた。
「(カーテンアップも、サマードレスにも、ノースペガサスもファンがいたはずだ。騎手や厩務員さんや、調教師、馬主に生産者や予想家まで、父さんがいつか言っていた通り、みんながやきもきしてたんだろうな。武内さんはどうしてるだろうか。鮫浜さんはがっかりしていたな…)」
匠にとって初の敗戦、その処理がまるで追いつかなかった。
「(なんだかこうしてみると今までが、特別だっただけの気もしちゃうな…)」
溜め息をつき、ぼんやりとした匠がふと窓を見上げてみると、電車は停まって開(ひら)いたドアから、駅名の表札がのぞいていた。
「(あれもう、南浦和まで来ちゃった。もう半分通り過ぎていたのか…。これじゃ府中本町着いちゃう…)」
夢とうつつの間に置かれ、時間を過ごしていた匠の目に、現実の景色がぼんやり映り、ふとその中に気づくものがあった。
「(あれ、あの人…?)」
匠がその目をじっと細めると、電車を降りた人たちに混じって、見覚えのある背中を発見し、その背中が匠に振り返った。
「(…!)」
それは中山に到着してすぐ出会ったあの中年男であり、どこか匠に勝ち誇ったような、含みのある笑みを投げかけていた。
―それはまるでアーサーの敗戦をあざ笑うような表情を見せて。
「(…っ!)」
その顔を見つめ匠は瞬間、はらわたが煮えるような気がしたが、中年男はすぐ背を向けると、駅の奥へと姿を消していた。
「(なんなんだよ、なんだってあのオヤジ…こんなところにも現れるんだよ!なんなんだよ、負けたのが悪いかよ!ちくしょう、何だって笑ってるんだ…!)」
ぼんやりしていた匠の目に、はっきりした光が戻っていた。
そして匠は勢いそのままに、今度はメールの画面を開いた。
「―結衣さん、今日はアシスタントの件、本当にありがとうございました。アーサーを撮ることはできましたが、勝つところは今日はお預けでした。でも凄く頑張ってくれましたし、アーサーはやっぱり強い馬です。今度はぜひ、一緒に勝つところを応援できればと思っています」
匠は渾身の想いを込めて、結衣へのメールを送信していた。
そして送ったあとではっとすると、自身の言葉に動揺していた。
「(あれ、やばい…。これじゃデートするための、約束の口実みたいじゃんかよ…。どうしよう、返信なかったら…)」
中年男に頭に来て、匠もつい弾みがついていたが、送った後に取り消しができずに、匠の背筋は凍り付いていた。
「(あああああ…。アーサーも負けたのに、こんな勝負運ない時におれは…)」
中年男のせいにしても、送った事実は取り消せなかった。
先程まであっという間に過ぎた電車の移動が遅く感じられ、今度は逆にスマホの着信をじっと待つ長い時間に変わった。
「(ああもう、何をやってるんだ、おれは…。本当、やけっぱちだったから…)」
競馬で負ける人の気持ちが、どういうものか痛く身に染みると、匠は自身の行いを恥じて中年男にも悪く思った。
「(…まあ、こんなやけっぱちになったのも、結局おれの弱さのせいじゃんか…。あの人はそりゃ好きじゃないけど、メールのことは関係ないんだし…。そういえばあの人は今回、馬券をおれの手に戻したよなあ…。こうなるのが分かってたんだな…。やっぱりちょっと凄い人かも…)」
まるで予期したような結果に、匠は思いを巡らすのだった。
「(それに結衣さんも、やっぱりあんなに素敵な人に彼氏いないなんて、考えてみれば有り得ないよなあ…。おれはいったい何、期待してんだ…)」
段々と気持ちが落ち着いて、匠がふと窓の外を見やると、既に日が暮れて暗くなっており、府中本町の近くに来ていた。
「…」
そうして外の暗がりを見ながら、無心になっているところに「ブル」と、スマホが振動するのが分かって、匠は慌ててメールを開いた。
「―匠さん、今日は残念でしたね。わたしもスマホで結果を見ました。でも残念だなと思っていたら、匠さんがお誘いを下さって…。はい、ぜひ行けたら嬉しいです…!」
結衣のメールは「よろしくお願いします」というスタンプも押されていて、どことなく結衣に似た金魚の絵が、照れたような顔でお辞儀していた。
それから匠は家路を辿ると、迎えた善男が心配しながら
「…おかえり。お前その、大丈夫か…?」
匠の顔を窺っていた。
匠はそんな善男の顔を見て
「…うん」
とそうひと言返事をしたが、疲れたような、嬉しそうな顔に、善男はじっと目を凝らすのだった。
次回予告
アーサーの敗戦の衝撃から、平静を取り戻していく匠。
休憩時間にパンを買うために、奏の待つブランへ出掛けますが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり