前回までのあらすじ
突然の武内との再会で競馬談義に花が咲く3人。
そのあと結衣と二人きりになると、再び意識をする匠でした。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第23話
第23話 馬場入場
「結衣さんは馬券、買ってるんですか?」
二人連れ立ってスタンドへ向かう通路で匠が結衣に問いかけた。
「…知りたいですか?」
結衣が目を見つめる。
「いや…あの、嫌だったらいいです」
「そうですか。じゃ、教えてあげません」
「え~と、あの、やっぱり知りたいです…」
惚れた弱みに気がついた匠は、その気持ちをまだ持て余していた。
「買いました。ほんの少しですけど…」
そんな匠に結衣が受け応える。
「やっぱりアーサーの単勝馬券?」
「はい。あまり詳しくありませんから…」
そう言うと結衣は財布の中から一枚の馬券を匠に見せた。
「単勝100円」
「はい、100円です」
そう言うと結衣はかすかに笑った。
「匠さんは何を買ったんですか?」
「あ、はい、この馬券になるんですが…」
そう言うと匠は善男の分と自分の分を一緒に取り出した。
「こっちのアーサーの単勝馬券千円分がおれの買った方で、こっちの3万円分の方が父さんから頼まれた馬券です」
それを見た結衣は
「お父様の分も買ったんですね。それにしてもこんな大きなお金、男の人って使うものなんだ…」
驚いた口調でつぶやいた。
そんな結衣を見て
「いや、あの、父さんも別に毎回こんなに使う訳じゃないんですよ。佐賀でアーサーで勝ったのがあって、出る時は奮発しているんです。それにおれも千円だけですから」
そう言った匠の顔を見上げて
「そうですよね。あの可愛いお店と、この馬券が結び付かないですし」
頷きながら結衣が答えた。
「可愛いお店って…うちのことです?」
「はい、レトロモダンの素敵なお店…ああいうお店が大好きなんです。それからパン屋さんも可愛かった…」
結衣が嬉しそうにつぶやいた。
「そう言ってもらえると嬉しいです。おじいちゃんが建てた家なんですよ、おじいちゃんが生きてたら喜ぶな。僕がまだかなり小さかった頃、車の事故で死んじゃったんですが…」
「すみません、そんなお話しをさせて」
「ああ、すみません。つい口が滑って。褒めてもらえたのが嬉しくてつい…」
匠は好意を持つ相手からの言葉がこんなに嬉しいものかと、自分でも初めて知った気持ちに口元が緩むのを感じていた。
「匠さんもお店、好きなんですね」
「ええ、そうみたいです。分からないけど…」
「ふふ、分からないって、なんなんですか」
そう言うと結衣はくすっと笑って、スタンドの外を真っすぐ見つめた。
「あ、匠さん。みんな出てきますよ。写真撮らなきゃいけないんですよね」
「本当だ、ちょっと前に行きますね」
そこには鎌倉記念の時より多くの人が壁を作っていた。
そうして鎌倉記念の時にも見かけた二人組の競馬ファンも、何やらお目当ての馬を目がけて声援を送っているようだった。
「お~い、沖!頑張れよ~!この前はちょっと悔しかったけど、今度はきっと逆転できるからー!」
「そうそう、今日は競る相手もいるし、アーサーも楽はできないからなー!」
そんな声が聞こえたかと思えば
「ハイライト記念でのぶっちぎりな、あれを再現できれば勝てるからー!頼むぜ的山―!」
ノースペガサスの応援の後はホワイトタイガーの応援になり
「中央馬の強さを見せてくれよ~!頼むぜ玉城―!」
との声もする。
その突き上げられた声援の手を影になるように写し取りながら、匠はアーサーの出番を待って一瞬のシルエットを捉まえた。
「アーサー!」
透き通る女性の声が一瞬隣から聞こえてふと振り向くと、そこには両手を添えてアーサーに声援を送る結衣が立っていた。
「結衣さん…?」
匠が目を丸くして見つめると
「…いつも一人だし、たまにはこうして声を出してみたいなって思って」
匠の反応に照れた様子で結衣が頬を赤らめて振り向くと、目が合った匠は急に体が熱くなってくるのを感じていた。
「あ、いや…その、すみませんでした。突然のことで驚いただけで…。こうして声援を送ることって、一体感があっていいですよね。よしおれも…鮫浜さん、頑張れー!」
匠もすかさず声援を投げた。
「匠さんは鮫浜騎手のことも応援したいって思うんですね」
「ええ、この前の鎌倉記念での、インタビューの姿が浮かんできて…」
「勝てるといいですね…」
「そうですね…」
胸の高鳴りを抑え込むように声援を送った匠だったが、鮫浜がぐっと手綱を絞ると、アーサーは軽やかに駆けて行った。
そのまま二人はアーサーを見つめ無言でスタートの時を待ったが
「締め切り5分前です」
の言葉にはっとして匠が口を開いた。
「あの、結衣さん。この場所で良いですか?今からだと上も混んでそうだし…おれに付き合わせちゃってごめんなさい。立ち見になってしまいそうですけど…」
「いいんです。いつも女性一人だとなんとなく前には居づらいですし…今は匠さんが居てくれるから、こうしていても不自然じゃないので…」
そう言って結衣は匠を見た。
「あ、はい。なんだか緊張しますが…いえ、そのスタートが近づいたので…」
結衣の瞳を真っすぐ見られずに大型ビジョンを見つめた匠に
「はい」
と頷く結衣に心臓が再び高鳴った匠であった。
締め切りのベルが鳴って場内にファンファーレが大きく響き渡る。
ライヴ演奏によるファンファーレはライトアップされて華やいでいた。
各馬がゲートへと吸い込まれると場内も息をのむ空気になり、匠も結衣も無言でアーサーのスタートを祈るように待っていた。
次回予告
ついに決戦の火ぶたが切られた全日本2歳優駿の舞台。
好スタートを決めたアーサーにはホワイトタイガーが並んで行って…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり