前回までのあらすじ
なぜ写真屋を引き継いできたのか、その理由を善男に訊いた匠。
それに答えつつも、特に匠に何も聞くことのない善男でした。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第7話
第7話 小倉競馬場
「返してください!」
小倉競馬場の発券機前、匠が男を呼び止めた。
「…。」
匠が呼び止めたその男は身長180cmくらい、鋭い眼光を両目にたたえ、骨太で威圧感を身にまとう、寡黙な中年男だった。
「その馬券は僕のです、返してください!」
と訴える匠に
「…」
相変わらず男は押し黙って動作を続けている。
「取り忘れたんです、その…」
やや気後れした匠を尻目に、無言で静かに視線を下げると、男はゆっくりとマークシートを発券機の入り口に差し込んだ。
「お釣りを取ったら、馬券を取り忘れて…その…」
匠は馬券を購入する際、釣銭を取って馬券を忘れた。
こうなると自分の馬券であると証明するのはかなり難しい。
「…。」
尚も無言を貫く男が匠の取り忘れの馬券を手に、何かに感じ入るような視線で坦々と馬券を買い足していく。
「あの…!」
困惑する匠をよそに、男が馬券を買い終えると今度は、促すような視線を匠に馳せ、購入者の列から引き離した。
「あの…返してください!」
「…。」
匠の焦りにも構うことなく男が匠の馬券を見やると、そのまま馬券を持つ手が男のズボンのポケットへと吸い込まれた。
「あ!ちょっと!」
これにはさすがに匠も瞬間、怒りが湧いてきたところだったが、そんな匠をじっと見つめながら男は重たい口を開いた。
「…落ち着け。」
表情のこわばった匠を見て男はゆっくり視線を落とすと、ハンドバックから財布を取り出し、静かに一言だけつぶやいた。
「…受け取れ。」
「…??」
匠に突然差し出されたのは、しわ一つない一万円札だった。
「…は?」
「…この馬券は、おれが買い取る。」
「…?」
この男が何を言っているのか全く分からない匠だったが、動揺している間に手中に一万円札が握られていた。
「あ、えっと…」
困惑したままの匠をよそに中年男はその場を立ち去り、匠は突然手に握らされた一万円を呆然と見つめた。
「…え…?」
そうして立ち尽くす匠の元に、今度は売店で買いものをした、善男が笑顔で戻ってくるのがぼんやりと匠の目には映った。
「おーい匠!今そこの売店で“アイスクリン”なるものを買ったぞ。アイスのコーンにただアイスクリームを乗っけただけのやつでな…」
上機嫌の善男の声を聞いて、匠ははっと我に返った。
「父さん!あのさ、つい今変なオヤジが現れて、一万円札をおれに渡して消えて…ガタイがよくて目が鋭くて、おれの馬券で…」
話がまとまらない匠を見て
「お、おう…何があったんだ?」
善男がなだめるように問い掛けた。
「あ、ごめん、えっと…」
段々と落ち着きを取り戻した匠が事の成り行きを話すと
「そりゃ、確かに変なオヤジだ」
と善男も首を傾げるのだった。
「お前の馬券を取り上げて、その代わりに一万円札を渡す…。はて、どういうことか…」
「そうなんだ、びっくりして結局、馬券もまだ全然買えなくてさ」
その瞬間、トゥルルルル!と発売締め切りのベルが鳴り響いた。
「仕方ない、外に出よう」
善男の言葉で場内を出ると、馬たちは既に輪乗りをしていて
匠が買っているはずのレースの発走も直前に迫っていた。
次回予告
取り忘れた馬券を持って行かれ、代わりに1万円を得た匠。
混乱のなか馬券を買っていたレースが発走を迎えましたが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり