登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
小川(おがわ)
謎の男。小倉で登場。匠の前に突然現れる
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める
滝沢 駿(たきざわ しゅん)
男性騎手。35歳。数多の名馬を知る天才騎手
前回までのあらすじ
前哨戦の青葉賞組から、日本ダービー勝ち馬は出ない。
そんなジンクスについて隣から、「クソくらえ…」と声がするのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第90話
第90話 天才・滝沢駿
―さあいまビッグツリーとアーサーが並んでスタンド前を走ります!両雄激突!スタンドは既に熱狂の渦に包まれています~!―
「滝沢行け~!いい位置取れたぞ~!さすがダービー7勝してるぜ~!」
「頼んだぞ~!そのまま溜めて行け~!どうせ後続は切れないからな~!」
滝沢駿(たきざわしゅん)の名前を呼ぶ声は絶え間なく周囲に響いていたが、口々に聞こえてくるその声は、他馬への声援を凌駕していた。
「(なんて凄い…ファンの数なんだろう…。それにビッグツリーを呼ぶ声より、騎手の名前を呼ぶ声が大きい…。滝沢さんが背負う期待は、生半可なものではないだろうな…)」
匠は滝沢を見つめると、ごくりと一人、固唾を飲んでいた。
デビュー戦勝利、ルーキー100勝、ダービー7勝、一日全勝。
デビュー年初GⅠ騎乗時の、菊花賞を10馬身差圧勝。
10年連続リーディング騎手の「天才・滝沢駿」の存在は、後進、ベテラン問わず畏怖される、張り詰めた雰囲気を放っていた。
「しかし滝沢は今日もインタビュー、はいそうです、ばっか言うんだろうな!」
「はっはっは!そりゃ、違いねえよなあ!」
ファンの声が近くで聞こえていた。
まるで勝利を疑うことのない、その声援を聞き取って匠は、脇目もふらずインを進んでいく、滝沢をただじっと見つめていた。
「―はい、そうです…」
初GⅠ制覇の菊花賞時も滝沢は特段、喜ぶ表情も見せず、ポツリとアナウンサーの問いに答えていた。
―滝沢騎手はお父様、光彦さんのご子息でもあるわけですが、やはり父・光彦さんの騎乗を、お手本に据えてらっしゃるでしょうか―
駿の父・光彦も同じく、一流騎手として知られていたが、駿が中学生になる頃には、調教師へと転身をしていた。
「はい、そうです…」
質問にただポツリ、つぶやくように返事をする駿に、アナウンサーも言葉を詰まらせて、次の質問を続けるのだった。
―え…え~っと…それから滝沢騎手、初GⅠ制覇となりましたが、騎手50、馬50の長距離で、技術を見せつけたと思われます。これについてはどう思われますか―
アナウンサーの質問にただ
「馬が強いです…」
ポツリつぶやくと、会釈をして、壇上を降りていた。
「おいおい駿、もっとファンサービスを…」
調教師の光彦の声に
「あれ、限界…」
駿はそうつぶやくと、一人最終レースに出て行った。
「まあ、いいか…」
光彦は頷くと
「頑張れよ…!」
背中に声を投げて、去り行く駿の後ろ姿をただ、何も言わず、黙って見つめていた。
「無口の天才、淀を支配する」
「ポーカーフェイス、新たなるヒーロー」
「不言実行、時代の担い手へ」
翌日のスポーツ紙の一面は、様々な見出しで飾られていた。
それが今後続くことになるとは、誰にも想像できていなかった。
無口なことも、無表情なことも、駿にとっては変わらない日常。
滝沢駿9歳春に起きた、その性格を形成した記憶―
「―お母さんのバカ!大っ嫌いだよ!」
駿が小学4年生のある日。
母・弥生を追い駆けて来た駿は、苛立ちを母親にぶつけていた。
「ちょっと落ち着いて!ちょっと待ちなさい!」
駿の肩を取ろうとした弥生に、駿は啖呵を切って背を向けると、かかとを鳴らし、外へと出て行った。
「なんだよもう、ジュースを驕るくらい!父さん重賞勝ったばかりだろ!?いいじゃんべつに、それくらい、ちくしょう!」
駿はその場で喚き散らしていた。
駿はたまたま放課後友達と、野球をして帰るところだったが、スーパーに入る弥生を見つけて、そのあとを追って入店していた。
「お前んちの父ちゃん、勝ったんだろ!?」
「あ~喉渇いた。何か飲みて~な!」
「いいじゃん、ジュースくらい驕れよな!」
その日の野球で駿がエラーして決勝点が入ったこともあり、断り切れずに駿はスーパーの弥生を頼って話しかけていた。
「ダメよ、そんなこと!関係がないわ!そんなの癖になったらダメでしょう!」
弥生の声に駿は板挟みで
「ケチ!」
と口論が始まっていた。
弥生が折れずに言い返したため、駿が言い捨てて店を出ていくと、騒然となった店内からすぐ、呼び返す声に足を止められた。
「あ!ぼく!ちょっと早くこっちに来て!母さんいきなり今、倒れたんだ!返事もないし、救急車呼ぶから、早くこっちに戻ってきてあげて…!」
駿はその声に引き返すと、すぐに弥生の元に駆け寄ったが、弥生は既にぐったりとしていて、駿の声も聞こえなくなっていた。
「お母さん!お母さん…!」
それでもなお、駿は絶えず弥生に呼びかけたが、救急車で運ばれた病院で、息を引き取ったのが伝えられた。
急性心不全―。
救急車を待つあいだ、スーパーでぐったりとする弥生の傍らで、駿の好物のクリームシチューのルウがカゴの中に転がっていた。
駿は一人、父・光彦のことを病院の部屋のなかで待ちながら、何度も壁に頭を打ちつけて、自分の言った言葉を責めていた。
「―お母さんのバカ!大っ嫌いだよ!」
駿は言葉に焼き尽くされていた。
病院に駆け付けた光彦には、最初そのことが分からなかったが、医者からその内容が伝わると、駿の心境を思いやっていた。
「―…」
その日から駿はすぐ、口をつぐみ、無口になっていたが、一年後に新しい母が来て、尚更言葉を失っていった。
「―父さん、食事や健康管理をしてくれる人が必要なんだよ。母さんいなくなって間もないけど、駿を可愛いって言ってくれたんだ。良いご縁だし、父さんはこのまま、再婚できたらいいと思ってる」
現役の光彦にとってみれば、急がれる決断となっていたが、駿にとっても傷が癒えぬままの、大きな決断に苦しんでいた。
「バンバンバン…!」
この頃駿は一人、光彦の木馬の部屋にこもって、気持ちを晴らすように手綱を取り、思い切り鞭を叩きつけていた。
「何の音…?」
光彦は留守中に駿が使っていたことも知らずに、その日初めて木馬の部屋を見て、駿が御(ぎょ)す姿に驚いていた。
「―…」
今まで一度たりと、馬に跨ったことのない駿が、流れるように木馬を打ちつけて、一体となってそれを御している。
「(この子はもう…何かを掴んでいる…)」
駿を見て光彦は瞬間、大歓声が脳裏に聞こえると、駿の未来が思い浮かんでいた。
「(ワアアアアッ…!)」
光彦はすぐそれが、現実になることを直感して、自分がやるべきことは何なのか、その場で悟って立ち尽くしていた。
「光彦さん…」
継母の皐月には、既に見慣れた光景であったが、駿の発散の邪魔をしないよう、黙っていたことを告白された。
その翌日、光彦は決心し、親しい競馬記者にこう語った。
「おれはさ…。こんな危ない仕事は、息子に継ぐ気なんてなれなかった。弥生のヤツに先立たれちまって、尚更遠ざけようと思ったよ。でももう、あれを見ちまったからには、引き返すことなんてできなかった。おれはもう、引退させてもらうよ。それで調教師免許を取るんだ。それでいつか、おれの息子を乗せて、親子二代でダービーを獲るんだ…」
そう記者に語った1年後、光彦は調教師になっていた。
駿はデビューし、5年後ダービーで、スペシャルデイズに騎乗し優勝。
このスペシャルデイズの調教師が、他でもない父・光彦であった。
インタビュアーが尋ねる言葉にも
「馬が強いです…」
とだけ答えたが、駿を迎える光彦は笑顔で、落涙し、両手に抱きしめていた。
そして現在―
「ザアアアア…」
―さあロングライトが先頭です!早くも1コーナーを曲がります!伊達は手綱をまだまだ緩めない、ロングフライトもそれに応えます!―
雨に煙る東京競馬場を、ロングフライトが疾走していく。
―さあさあそれに続くビッグツリー!天才・滝沢駿が2番手だ!隣からアーサーと荒尾真凛、ビッグツリーに競りかけていきます!―
「ワアアアアッ…!」
大歓声が注ぐスタンド前、水しぶきを上げる芝生の上で、駿は横に取りついたアーサーと、真凛に向かってポツリつぶやいた。
「つらいよね…」
真凛はその言葉に
「え…?」
と駿に返事をしていたが、何のことかは全く分からずに、ただ前に再び振り向いていた。
「…でも、負けない…」
駿はポツリと言うと、そのまま手綱を長く持ったまま、降りつける雨の中を坦々と、ビッグツリーと共に駆けて行った。
次回予告
なぜアーサーの馬券を買ったのか、その理由を小川に話す匠。
匠の声を聞き取った小川は、意外な反応を見せるのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり