登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
小川(おがわ)
謎の男。小倉で登場。匠の前に突然現れる
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める
前回までのあらすじ
小川に突如馬券を尋ねられ、ポケットの中から取り出す匠。
何も言わずに今度は結衣を見て、同じ質問を重ねるのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第89話
第89話 ジンクス
―スタートしましたー!―
ガシャンと鳴る、ゲートを各馬が飛び出して行くと、匠はアーサーが来る瞬間を、ファインダー越しに待ち構えていた。
「頑張って…」
つぶやく結衣の声が、歓声の中に伝わってくると、匠がそれに頷く暇もなく、実況の声に掻き消されていた。
―さあ日本ダービー、スタートです!各馬目立った出遅れはいません!おおっと、さっそくロングフライトが5番枠から飛び出して行ったぞ!これは速い!水の浮いた馬場でも、お構いなしの先制攻撃だ~!―
「ワアアアアッ…!」
スタート直後に飛び出して行った、黒鹿毛をそのレンズが捉えると、匠はファインダーから覗きつつ
「ロングフライト…」
ポツリつぶやいた。
―さあ行きます!これがロングフライト!自分の競馬に持ち込めば強い!勝負師・伊達の博打が今回は、成功する結果になるでしょうか~!―
実況の声も熱を上げて、ロングフライトの走りを伝えた。
「いいぞ伊達~!さすがは勝負師だ~!不良馬場でもハナに行くとはな~!行っちまえ~!インが正解だ~!ずっと良馬場だったんだしな~!」
ファンの声援に押されながら、ロングフライトが加速していった。
「(さあどこだ…。今回はどの辺で、真凛さん、競馬をするんだろうか…)」
匠が先頭を見送って、アーサーの姿を探していると
―おお~っと2番手、もうビッグツリー!最内枠から前に出ています!同馬にとってはこれは珍しい積極的な位置取りと言えます!天才・滝沢、これは作戦か、それとも絶対王者の自信か~!―
「ワアアアアッ…!」
実況の声と歓声の雨に、痺れるように打ちつけられていた。
「(前、行った…。滝沢さん、行かせた…。この馬場では前がいいのかな…あ!)」
匠はそれを意識した瞬間、不意にシャッターを切り落としていた。
「カシャシャシャシャッ!」
集中してレンズを覗いていた匠の目が被写体を捉えると、ビッグツリーに馬体を寄せていく、尾花栗毛の全身が光った。
―おお~っと、行きます!アーサー並んだ!大外枠から前に迫ります!滝沢が見る、荒尾真凛も見る、両者がその様子を窺います!人気両頭が開始早々に馬体を併せて競っていきました!これは長いダービーになりそうだ~!―
「ウオオオオッ…!」
匠の周囲で傘を持つ人も、スタンドの観声も熱を上げて、競り合う二頭の様子に誰もが息まき、その目を奪われていった。
「こりゃあ凄いぜ~!人気の二頭がいきなり序盤で競り合うとはな~!腕の差だったら滝沢有利だ!去年も勝ったし、今年も行けるぜ~!」
「おお行け行け~!ほっといても前走、青葉賞組は勝てやしねえよ~!まして真凛はダービー初騎乗、姉ちゃんにはまだ早いタイトルだ~!」
周囲からそんな声が聞こえ、匠はポツリ、結衣に漏らしていた。
「父さんが…。青葉賞組からは、ダービー勝ち馬は出ていないって…。そういう話はしていました…」
「そうですか…」
結衣がつぶやいた。
「そういうの…ジンクスって言われて、縁起が良くないとか言われますが…。でも…」
匠が言いかけると
「クソくらえ…」
隣から低音の、小川の声がポツリ響いていた。
「え…?」
その声に匠は振り向くと、隣で傘を差す小川を見つめ、その眼光に善男が言っていた、ジンクスのことを思い出していた。
「―ジンクスな。有名なことだがな、青葉賞組は勝ち馬がいない。まあいつかは現れるんだろうが、これまでも中々出てこなかった。ただ匠、父さんは今回は最大のチャンスだと思っている。アーサーは本当に強いからな。それに父馬のユーサーにしても、絶対不可能と思われていた、年間無敗で古馬の王道の完全制覇を達成している。ジンクスを破ることにかけてなら、ユーサーの血が黙ってないはずだ」
「そうなんだ…。でもそういうことだと、これからもジンクスとの戦いに…」
不安気につぶやいた匠に
「当然だ。勝負の世界だしな。だがジンクスなんてものは結局、勝負を決める要素にはならない。それを破る力があるかどうか、それだけが問われるポイントなんだ。アーサーは資格があると思うし、これが予想の分かれ道になるな」
善男はそう言うとふと黙り、夕飯の食卓を見つめていた。
「そうだよね…。これまでと一緒なら、時代が変わることもないんだしね…」
匠が頷いて答えると
「それにほら…。見てみろ、このテーブル。なんと今日も夕飯、刺身だった。いつもなら刺身のあとは大体、ハンバーグかカレー、どっちかだがな…。早速、ジンクスが破られた…」
善男がつぶやくその言葉に
「…どうかした?」
真弓が振り返って、二人の顔をじっと見つめていた。
「いやあの、なんでもない…」
すぐ善男が、声に詰まって真弓に答えると、引きつった顔で苦笑いをした、匠もコクコクと頷いていた。
「(―そうだ、くそくらえ…。言葉悪いけど、小川さんの言う通りだと思う…。父さんも話していた通り、ジンクスでは勝敗は決まらない。それに今日はどんなことがあっても、結衣さんの前で、弱音を吐かない…)」
匠がそう結衣をうかがうと
「?」
結衣は匠に微笑んでいた。
「(歴史をつくる、流れを変えるのは、どんな名馬も通ってきた道だ。ジンクスが常に囁かれるのは、それだけ強い馬ってことなんだ。アーサーをずっと信じ抜いている結衣さんと釣り合えるようにおれは、勝つって気持ちを今よりも強く、ずっとしっかり持っておかなくっちゃ…)」
匠は結衣を見て頷くと、アーサーの方へ視線を移した。
「ふん…」
そんな匠の隣で不意に、息を吐く小川の声が聞こえた。
次回予告
ビッグツリーの鞍上に跨る、不世出の天才・滝沢駿。
無口な事で知られる天才の、苦悩の過去が蘇るのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり