登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。アーサーの主戦を務める
前回までのあらすじ
匠のシャッター音を聞きながら、昔のことに思いを馳せる結衣。
雨に煙る東京競馬場で、匠の背中を見つめるのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第85話
第85話 日本ダービー・パドック
「ビッグツリー…」
結衣がつぶやく声に、匠ははっとしながら振り向いた。
「結衣さんも…やっぱり気になります…?」
焦ったように、問いかけていた。
「はい、わたし…。はじめて見たんですが…。アーサーに似た感じがします…。こういう感覚になれるのは、アーサーだけかと思っていました…」
驚いた口調で言う結衣に、匠はゴクリ、固唾を飲んでいた。
「そ、それは…。結衣さんが言うことは…。特別っていうことでしょうか…」
結衣はその声に押し黙ると、口に手をあてて、匠を見つめた。
「ごめんなさい…。集中してるときに、余計なことをつぶやいてしまって…」
「いや全然、それは平気です。それよりもうひとしきり撮ったので、結衣さんの話、聞いてみたいです…」
匠が結衣の声に返すと、その答えに聞き耳を立てていた。
「はい。それが…ビッグツリーの肌が、凄くふわふわで柔らかく見えて…。アーサーもいつもそうでしたが、雨のせいか、もっと光って見えて…。それにバランスが凄く良くて、お尻もすっごく大きいですから…。本当に走りそうだなって…」
結衣がアーサー以外の馬に、これだけ反応するようなことは、記憶の中になかったこともあり、匠はビッグツリーを確かめた。
「あのトモが…。確かに張っています。結衣さんが前に言ってくれていた…。コブのように盛り上がっていて、何だか浮き出るように見えますね…。それに心なしかアーサーのふわふわ感より柔らかいような…」
「それにあの…。付け根の腰回り、パンとして厚く見せていますよね…。ああいう腰をしている馬は、速く走れる馬だと思います。肩もふっくらとしていますし…」
結衣の声に匠は冷やっと、背筋が凍るような感じがした。
「あの、結衣さん…。アーサーと比べると、正直どっちが良い感じですか…?」
匠が意を決し、尋ねると
「…分かりません…こんなの初めてです。どっちを見ても胸があったかくて…」
結衣が胸に手をあてて言うと、匠はただ、黙って見つめていた。
「(結衣さんが…アーサー以外を見て、こんな反応をするということは…。こりゃ、やっぱり凄い馬なんだ…。それに何か今は別の馬、気にしてるような感じがするけど…)」
匠は結衣の視線がどこに向かっているのかすぐに確かめた。
「テンペスター…。もしかして、あれですか…?」
匠がそっと結衣に告げると
「…あ…はい。ごめんなさい、わたしったら…。ついちょっと気になってしまって…」
匠の問いかけに頷いて、結衣が眉を下げながらつぶやいた。
「初めてです…。3頭も居るなんて…」
結衣の声に匠はひとこと
「3頭!?」
驚いた声を上げると、結衣が困った様子でつぶやいた。
「はい、3頭…。あのテンペスターにも、おんなじような感じがするんです…。実際、すっごくきれいですし…」
「(ゴクリ…)」
匠が押し黙ると、結衣がはっと振り向いてつぶやいた。
「あのでも、その…気にしないで下さい。わたしがただ見た感想ですから…」
匠を気遣って微笑むと
「いやでも、その…。結衣さんが言うのなら、間違ってなんかないと思います…。そうだ、それより3頭目って、アーサーで間違いないんですよね…?」
不安になった匠は結衣に、念を押すように尋ねかけていた。
「はい、そうです…!ごめんなさい、ほんとに。最初にお話しするべきでしたね…」
「良かったあ…。これがもし違ってたら、どうしようかなと思っちゃいました…」
結衣の声に胸を撫でおろし、息を吐きながら匠が答えた。
「ごめんなさい…心配をさせちゃって…」
結衣が匠を見て謝ると
「いえ、全然…。それよりも肝心の、アーサーの調子はどう見えますか…?」
匠が改めて問いかけた。
「ふわふわで…。すっごくきれいですね。それになんだかこの前の時より、胸のあたりが深くなったような…。首の付け根のぽこんとしてる、コブみたいなのも出た感じですし…。成長したんだと思います」
結衣が確かめつつ答えると
「なるほどです…」
その声を聞きコクリ、匠が頷きつつ返していた。
「(結衣さんはほんと、いつも全体を見ながら判断をしているんだな…。おれにはきっと、気がつかないよ…。それにそんな細かいところは、普通はきっと目が届かないよな…)」
匠はそう思いつつ結衣に、再びその視線を戻していた。
「―…?」
匠の視線にふと、結衣が気がついて微笑みかけると
「あ、いや、その…」
耳を赤くしながら、匠はまた視線を逸らしていた。
「(アーサーが勝って告白するって、決めては来たけど、大丈夫かなあ…)」
結衣をまっすぐ見られないまま、匠がまたパドックを見返すと
「そういえばあの子、ロングフライトも…。この前より良くなっています…」
隣から結衣の声が聞こえ、匠は背筋が凍りついていた。
「そうですか…。この前もアーサーに、相当僅差のレースでしたよね…」
「この前よりすっきりしていて、もっと無駄がなくなった感じです…」
結衣の声に匠は前走、青葉賞が脳裏に蘇った。
「(この前だって粘ってたんだよ…?もしあれで無駄があったというなら、今度は一体、どうなっちゃうんだ…?)」
自分なりに分析しながら、心苦しくなった匠だった。
「止まーれー!」
パドックの馬たちが、一斉にその声に立ち止まると、いつもより多い関係者たちが、次々に愛馬の元へと向かう。
「武内さん、真剣な表情だ…」
ズームレンズで確かめながら、ポツリとつぶやいた匠に向かい
「武内さん…」
結衣も心配そうに、武内とアーサーを見つめていた。
「いよいよか…」
降りしきる雨の中、それぞれの馬に騎手が駆け寄ると、いよいよアーサーにも真凛が乗り、匠も緊張感が張り詰めた。
「(雨だけど…。しっかり撮り切るぞ…。結衣さんがくれたチャンスなんだから…)」
匠がぐっと脇を締めると
「アーサー…」
結衣の言葉も聞こえずに、匠はじっとそこで構えていた。
「(こ…これは…)」
早速1番手のビッグツリーが歩み寄ってくると、匠はファインダー越しの鞍上・滝沢の表情を捉えていた。
「(笑ってる…。いま少しだったけど、相当手応えがあるんだろうな…。それに弥生賞の時よりも、更に威圧感が増した感じだ…)」
堂々と前を歩いて行く、ビッグツリーの威圧感を前に、匠は気づくとシャッターを不意に、指の動くまま切り落としていた。
「―カシャッ!」
アーサー以外を撮ろうとはしない匠がシャッターを落としたことで、結衣も驚いて目を丸くしたが、匠も自分で困惑していた。
「(あれ?なんだろう…。なぜか動いちゃった…。なんだかつい、指が重たくて…。はは、何やってんだろ、まったく…)」
匠は意識を切り替えると、アーサーの番に集中していた。
「(いよいよアーサーがこっちに来たぞ…。殿(しんがり)だからバックもきれい…。よし真凛さんも良い表情…)」
匠がそう脇を固めると、真凛もふと笑みを見せるのだった。
「(あ…あれは…。滝沢さんと同じ…)」
匠はすぐシャッターを切った。
「―カシャッ!」
雷鳴轟くパドックの中を、真凛とアーサーが過ぎ去っていく。
去り行くアーサーの後ろ姿に、匠がシャッターを切るあいだにも、周囲の観客たちは次々と、スタンドへ足を引き返していた。
「…あの、結衣さん。ほんと、何て言ったら…」
人気のなくなったパドックで
「はい。わたし…その、嬉しかったです…」
結衣が匠に微笑んでいた。
「いや、おれも…。その嬉しかったです。またこうして、結衣さんと来れたこと…。それに今日はすっかり傘まで、本当にお世話になりっぱなしで…」
「…」
結衣が匠の声に、赤い顔でふっとうつむいていた。
「…あの、匠さん。お役に立てました…?」
つぶやくように言った言葉に
「もちろんです…。凄く、助かりました…。結衣さんが一緒に居てくれて…」
匠はそう言って頷くと、結衣が持つ傘に手を伸ばしていた。
「傘、持ちます…。スタンドに行きましょう?取り敢えず、パドックは撮れましたし…」
匠の声に結衣が頷き、黙ったまま、その場から離れると
「(いよいよか…。いよいよ発走だ…。どうなるかなんて、分からないけれど…)」
隣を並んで歩く結衣に、匠はチラと視線を馳せていた。
結衣は気づかずに胸に手をあてて、何も言わず、瞳を潤ませると、うつむいたまま真っ赤な表情で、静かに歩調を合わせるのだった。
次回予告
実況に送り出された各馬が、次々に返し馬を駆けて行く。
大外18番のアーサーが、脚を止めて近づいたその場所は…
次回:競馬小説「アーサーの奇跡」第86話 日本ダービー・本馬場入場
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり