登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
前回までのあらすじ
匠の胸に突然飛び込んで、かすれた声で理由を告げる結衣。
高鳴る胸に匠は動けずに、降りしきる雨を見つめるのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第83話
第83話 髪飾り
「―…」
甘い香りのなかで、匠はただ雨傘を差していた。
「ドッドッド…」
早鐘を打つように、胸の音が強く高鳴っていた。
「(ああ結衣さん…。おれ、どう考えたら…)」
匠はじっと目を閉じていた。
「ごめんなさい…。隣で見てるよりも、この方がずっと濡れないですから…」
結衣はまた匠に繰り返し、かすれた声でそうつぶやいていた。
「いいんです…。分かってます…おれのこと…。心配してやってくれたって…。確かにこの方が濡れないし、こんな強い雨が降ってますから…」
匠はそう言うと目の前の、結衣の声に小さく答えていた。
「(ああ結衣さん…。おれはなんて言ったら…。祭りの日もあったことだけど…。でも前とは違って今度は、偶然なってるわけじゃないんだし…)」
意識すればするほど匠は、胸の鼓動が打ち付けるのだった。
「(ああわたし…。どうしよう、こんなこと…。これしかなかったって言っても…。匠さん…軽い女だって、こんなことしたら嫌われちゃうかな…)」
そう思って結衣は少しだけ、匠の目をチラリと見上げていた。
「あ…」
一瞬、結衣が動いたことで、匠もそっと確認してみると、結衣の潤んだ瞳と重なって、ドキンと胸を打ち鳴らすのだった。
「(は…はわわ…)」
匠はその瞬間、ぬいぐるみの会話を思い出して、結衣の胸に抱かれる妄想から抜けたときの呪文を唱えていた。
「(そうだ、あのときは呪文を唱えて…。色即是空(しきそくぜくう)…色即是空だな…)」
頭の中で唱えていると
「あのわたし…他に、方法なくて…」
結衣が三たび説明していた。
「分かってます…全然、構いません…」
じっと目を閉じて言う匠に
「よかったです…」
結衣がそう答えると、再び肩口へともたれていた。
「―…」
そうして結衣がふっと、体を預けるようにもたれると、不意に鞄の紐が手に当たって、背中の方へ手を伸ばすのだった。
「…あ、ダメです。鞄、濡れちゃってます。カメラだってまだ入っているのに…」
心配する結衣のひとことに
「そうでした…。でもきっと大丈夫…。撥水加工、されてますから…」
匠がその声に返事した。
「でもこの雨…。こんなに凄い雨じゃ、きっとカメラまで濡れちゃいますから…。もっとこっちまで来てください…」
結衣が言うと鞄を引っ張り、匠を自分の方に引き寄せた。
「むにゅっ」
「!」
カバンを強く引っ張った拍子に、結衣の胸が匠に押しあたると
「(ははは…わあ…)」
匠は意識が飛び、ふらふらと結衣に寄りかかっていた。
「カチャン…」
結衣のヒールの音が鳴り、最前列の柵へともたれると
「そうだ…!」
結衣が匠の肩にある、ベルトの片方に手をかけていた。
「…匠さん、カバン下ろしてください。わたしが抱えて持っていますから…。こうしてほら、柵の上でなら、かなり濡れにくくできるはずですし…。アーサーが来るまではこうして、少しのあいだ、置かせてもらいましょう…?」
結衣が言うままに匠はすぐ、無言で頷き鞄を預けた。
「それからほら…。わたしが前を向いて、匠さんに少し詰めてもらって…。こうすればぴったり濡れないで、アーサーの出番まで待てそうです…」
落ち着いて説明する結衣が、匠の腕を取って腰に置くと
「あったかい…」
そっとつぶやきながら、顔を真っ赤にして、うつむいていた。
「(ああこんな…恋人らしい姿勢…。それに結衣さんの香りもしてるし…)」
匠は結衣に触れ合ったまま、ぼうっと降りつける雨を見ていた。
「…凄い雨…」
結衣の言うひとことに、匠が黙って固まっていると
「匠さん…?」
不意に結衣が問いかけて、匠が慌てて返事をしていた。
「あ…は、はい!そうですね、凄い雨…。もう少しの辛抱ですから…」
結衣の髪飾りを見つめつつ、匠は我に返って告げていた。
「(ああだめだ…。いますぐ抱きしめたい…。でもそんなこと、絶対にできない…。アーサーが勝って告白って、ずっと最初から決めていたんだし…。それにこんな逃げ場がなくちゃあ、ダメだった場合、怖がられちゃうし…)」
そう思考を整頓してから
「(そういえば…ラッキーアイテムとか、結衣さん言ってたような気がするな…。金魚って何かあるのかなあ…?)」
匠は髪飾りを見つめて、ふと浮かんだままに問いかけていた。
「あの結衣さん…。そう言えば髪飾り、金魚がラッキーアイテムとかって…。確か朝に言ってましたよね…」
何気ない口調で尋ねると
「―…」
結衣は黙ったままで、匠のその声に頷いていた。
「何か良い思い出があるんですか…?」
匠が問いかけるその声に
「あの…わたし…」
小さく返事すると
「どんなだろう?きっと素敵だろうな…」
匠が改めてつぶやいた。
「それはその…、小学生のときに…。お母さんとお祭りに行って…」
結衣はそこまで言うと黙って、うつむいたまま身をすくめていたが
「あ!そうか…ちょい待って、当てますよ…!」
唐突に、匠がつぶやいた。
「―…」
匠のその言葉に、結衣はとくんと胸を打ち鳴らすと
「う~ん、そうですね…。考え中です…。待ってくださいね…きっと当てるから…」
匠はそう言ってあれこれと、答えを一人、考えるのだった。
匠は結衣の腰にあてた腕や、甘い香りに揺れる髪の毛など、それらを意識しないで済むように、なるべく真剣に考えていた。
「とくんとくん…」
結衣はその間にも、匠が過去を言い当てるかどうか、不安と緊張から胸を鳴らし、段々と鼓動を早めていった。
「う~ん…そうだなあ…。金魚すくいじゃあ、結衣さんが何かやりそうにないし…。もらったって言ってもどういう経緯でもらうものなんだろうなあ…?」
匠がかなり核心を突く推理を展開しているのを聞き
「どきんどきん…」
胸がより高鳴って、結衣はじっと身をすくめるのだった。
「よお~し、はっ!」
思いついた調子で、匠が結衣の後ろでつぶやくと
「どきんっ…!」
胸が止まるほどに鳴って、結衣はびくっと体を震わせた。
「結衣さん…!」
匠が切り出した声に、結衣がぎゅっとまぶたを閉じていると
「ほら、ダービーの馬が出てきました!雨はまだかなり降っていますけど…。今度は位置、交替しましょう?すみません。鞄、守ってもらって…」
匠の促したその声に、結衣はきょとんと目を見開いていた。
「あの、結衣さん…?」
腰の手をほどこうと、後ろから匠が声をかけると、結衣はようやく事態を呑み込んで、慌てて
「ごめんなさい…!」
と返事した。
「いや、全然…。結衣さんのおかげです。こんな前で写真が撮れるなんて…。しっかりアーサーを撮りますよ!」
匠が微笑んでそう言った。
結衣は匠の言葉を聞きながら、折り畳み傘をそっと受け取ると、強い鼓動に胸を抑えながら
「はい…」
と潤んだ目で答えていた。
次回予告
匠が鳴らすシャッター音を聞き、昔のことを思い浮かべる結衣。
匠の元を尋ねた思い出が、鮮明に思い出されるのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり