前回までのあらすじ
結衣の父が他界していると知り、謝る匠と落ち着かせる結衣。
飲食代の会計を巡って、不意に距離を縮める二人でした。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第30話
第30話 別れ際
穏やかな空気に戻ったあとは、会計を済ませホームへ向かうと、二人は混んだ電車を見送って次発の電車に腰を掛けていた。
会社帰りの人たちが大勢、発車間際まで乗り込んでくると、ドアが閉まって晩秋の冷たい夜の空気も遮られていった。
「あの、結衣さん。どこで降りるんですか?」
匠が小さな声でつぶやくと
「…登戸です」
匠の声量に合わせて小さく答えを返した。
それから二人はただ黙ったまま一駅一駅停車していくと
―次は宿河原~―
のアナウンスで
「次ですね…」
と匠がつぶやいた。
「…今日は凄く楽しかったです、わたし…」
結衣がうつむきながら話すと
「おれもです、ありがとうございました…」
匠もうつむきながら言った。
「それから、わたしが声をかけたのに、お食事もご馳走していただいて。素敵な喫茶店に入れたのも、凄くいい思い出になりそうです」
「全部、アーサーがくれたものですよ。本当に不思議な馬ですよね…」
結衣も匠もコクリと頷いた。
―間もなくー、登戸~登戸~。小田急線は~お乗り換えです~―
ポイントに差し掛かった電車から揺れが伝わって肩が触れ合うと、うつむいた結衣の甘い香りから、別れ際の気配が感じられた。
匠は
「(年明けにまた会えるさ…)」
自分に言い聞かせるようにし、数時間の温もりが消えていく寂しさを紛らせようとしていた。
登戸に着くと結衣は席を立ち
「ありがとうございました」
と伝えて、一礼すると前の人に続き、冷え切ったホームへと降りて行った。
匠は
「こちらこそ」
と結衣に告げ、同じように一礼して見せると、今度は結衣の掛けていた座席へ詰めて空いた車内を眺めていた。
「…」
結衣の座っていた座席にふわり、甘い香りがまだ留まっている。
匠はその香りに言い知れない切なさをただ一人感じていた。
「―。」
電車が発車し結衣が降車したホームを匠が不意に振り返る。
するとそこにはベンチの横に立つ結衣の姿が目に飛び込んできた。
「(結衣さん!)」
匠が目を丸くして見つめると、結衣は匠に小さく手を振って、目を細めながら慈しむように、過ぎていく車窓を見送っていた。
あっという間にホームが遠ざかり車窓の景色も流れ去っていく。
レールを削るかん高い車輪の音だけが暗闇に響いていた―
次回予告
競馬小説「アーサーの奇跡」2歳編は完結致しました。
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はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり