前回までのあらすじ
少しづつ心の距離を縮めて、川崎駅へ向かう匠と結衣。
混雑した電車を避けるために、喫茶店で過ごすことにしますが…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第29話
第29話 喫茶店にて
「(え~っと、まあ、コーヒーで良いかな…)」
匠がメニューに視線を落とすと、1分も経たないうちにパタンと表紙を閉じて結衣に声をかけた。
「ええっと…おれ、コーヒー頼みますが、結衣さんも好きに選んでください」
さっとメニューを手渡した匠に
「はい」
と結衣が小さく頷いた。
結衣は受け取るとメニューを開いて順番にページをめくっていって、何か小説でも読むような眼でゆっくりと視線を移していった。
「(結衣さん、メニュー見るの好きなのかな?)」
匠はそれを尋ねようとしたが、邪魔するのも悪いように感じて、ただ何も聞かず、黙ってその場で店内を何気なく眺めていた。
「(そう言えば結衣さん、おれに焼きそば半分くれたからお腹空いてる?)」
デート経験がない匠はふと、女性がどのように考えるのか、全く分からないまま向き合った自分に改めて驚いていた。
「(そう言えば奏(かなで)のヤツに何度か捉まってお茶したことはあるけど、あいついつも遠慮なく食べてたし、結衣さんもお腹空いてるだろうな。こんなことしてて夢みたいだけど、自分でもよく店に入ったよね…)」
見るものがなくなって今度は不意に結衣との視線が重なると
「決めました」
と匠に微笑んだ結衣の頬が少し赤らんでいた。
「(結衣さん、凄く肌が白いからな…。外、寒かったから赤くなってる)」
結衣の声に匠が頷きつつ、奥の店員が視線に入ると、アイコンタクトで店員がすぐに注文を取りに歩み寄ってきた。
「コーヒーと…ミックスサンド。それから結衣さんは何にしますか?」
「はい、ダージリンティーをひとつ…」
店員が注文を繰り返すと、再び静かな時間に戻った。
「匠さん、意外と食べるんですね」
静けさのなかで結衣が言うと
「はい、もし良かったら結衣さんもって…」
尋ねるように匠が言った。
結衣は匠に目を細めると、少しだけ視線を下に落として
「わたしも南武線で帰るんです」
先の質問にそう返答した。
「え?じゃあ同じ電車じゃないですか。驚きました、まさか一緒なんて」
「はい。でも途中の駅で乗り換えて、そこからまた少しあるんですけど…」
「おれは府中本町ですから、そのままずっと座っていけますが…。でも途中までは一緒ですね」
匠は自然と話していた。
「…それで、あまり遅くならないうちに電車に乗ろうとは思うんですが、こういう時って送るべきなのか、そういうのがおれ、よく分からなくて…結衣さんと会ってまだ2度目で、何言ってるんだとは思いますが…」
「平気です、一人で帰れます。それにお父様にも悪いですし…。でもせっかく良いお店ですし、時間まではゆっくりしたいですが…」
結衣の頬は赤いままだった。
「そうですね。入ったばかりだし…それに外も寒かったですし。温まってから電車乗りましょう」
結衣を見つめて匠が言った。
そのうち店員が注文された品物を粛々と運んできて、お手拭きを置くと、ゆっくり奥へとまた立ち去って静けさが戻った。
「あの、結衣さん。おれの分はこれだけあれば十分満腹になるので、良ければおれを助けると思って、焼きそばの代わりに食べて下さい」
匠は盛り付けられたサンドイッチの皿を二人の間に置くと、二つほど自分の側に取り分け、あとの四つを残してそう言った。
「あの…はい。本当に良いんですか?」
結衣が尋ねると匠は頷き、結衣は微笑んでそれを手に取ると、ひとつずつゆっくりと食べていった。
そんな結衣を見て匠は不思議と気持ちが和らぐのを感じながら
「そう言えば結衣さんのお父さんて、どんな感じのお父さんなんです?」
食事の話題、とそう話しかけた。
「わたし…父は他界しているんです」
匠にとっては無難な話題と、何気なく聞いただけだったのだが、結衣は少し視線を下げて答え、匠は軽率だったと思った。
そしてすかさず
「すみませんでした、せっかく楽しく食事してたのに…」
顔をしかめて頭を下げた。
「あの、そんな気にしないでください。その…父はわたしが小さい頃、病気で亡くなってしまったんです。だから全然記憶にもなくって」
結衣がなだめるように答えた。
「そうでしたか、ほんとにごめんなさい…」
匠は結衣を見られなかった。
「(そうか、だから小倉競馬場では、懐かしそうな顔をしていたのか…)」
匠は小倉競馬場での結衣の視線のことを思い出して、善男と匠を懐かしむような視線の意味が分かる気がしていた。
「…こういうときは大体こうやって、申し訳ない感じになるんです。でもわたし全然気にしませんし、匠さんだって悪気はないのに」
匠を責めるどころかかばおうと、心配そうに声をかける結衣に
「おれなんかさっき店継ぐこととか、自信がないとかぼやいてしまって…。父さんから電話来た時も、結衣さんにすぐ替わってもらったり…なんだかまるで子どもみたいで」
嘲(あざけ)るように匠が言った。
「…。」
結衣は匠にどう声をかけたら良いのかという雰囲気に変わって、静かに紅茶を飲んで落ち着くと、匠を見てゆっくりと切り出した。
「…匠さん、お父様は好きですか?」
「…照れくさいけど、嫌いではないです」
「わたしも父が嫌いではないです。知らないのに変だと思いますが…」
結衣が視線を落として言った。
「(…ああ、結衣さんはおれより全然、自分と向き合ってきたんだろうな…)」
匠は事実を直感した。
それから結衣はひとつずつ静かにサンドイッチを味わうと時折、紅茶に手を伸ばし、カップを置くと、テーブルを見つめながら切り出した。
「…小さい頃はなぜ父がいないか、みんなと違うことが不思議でした。でも段々大きくなってくると、色んな人がいるんだと分かって…。父が嫌いではないだけでも、少しは幸せかなって思って。やっぱり変かもしれませんが…」
結衣が話すとすぐに匠が
「変じゃないです」
「?」
「結衣さんは全然変じゃないです…!」
真っすぐに結衣を見て答えた。
その言葉を受け取って微笑むと、結衣は
「ごちそうさまでした」
と言って、小さく手を合わせると伝票に手を伸ばして自分の前に置いた。
「さっきは結局焼きそばの分を匠さんに払ってもらったので、今度はわたしに任せてください」
そう言うと財布を取り出していた。
「あ、いや。その何かおれにもひとつ、男らしいことをさせてください」
匠が伝票を取ろうとすると
「支払いに男女なんてありません」
結衣がすかさず伝票を押さえた。
「(困ったな、これ。おれが悪いのに…)」
どうにかして結衣に払わせまいと必死に考える匠だったが、かえって何も浮かんでこないため
「(こうなったら!)」
とその手を伸ばした。
伝票を押さえてじっとしている結衣の手に匠は手を重ねると
「メリークリスマス!」
声を上げながら真剣な顔で瞳を見つめた。
突然のことに結衣が驚くと
「えっと、その、ちょっと早いプレゼント…。サンタクミロースがご馳走しまーす…!」
やぶれかぶれに続けて言った。
結衣は驚いて目を丸くしたが、段々と顔が赤らんでくると、押さえた手の力も抜けていって、匠は伝票を手に取っていた。
「…匠さん、ダジャレのセンスないです…」
結衣がつぶやくように話すと
「自分でも分かってます、お許しを…」
伝票をポケットにしまった。
「それに今、わたしに触れましたよね…」
結衣の言葉を聞いて匠は
「ごめんなさい、つい勢いまかせに…」
肝を冷やして頭を下げた。
そんな匠に、結衣は重ねた手をもうひとつの手の中にしまい
「でもいいです…。だってさっき触れたの、サンタクミロースさんなんですから…」
真っ赤になってうつむいていた。
次回予告
穏やかな雰囲気を取り戻して、電車で帰路についた匠と結衣。
別れ際のホームで振り返った、匠の目に飛び込んできたものは…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり