前回までのあらすじ
鎌倉記念の表彰式後に人気のないパドックに来た匠。
驚きの再会を果たしつつも、急いで家路へと向かうのでした。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第16話
第16話 七五三
「さて、今日はちょっと頑張らなくちゃな」
善男が忙しく準備している。
「この背景、引っ張ればいいんだね」
匠がアシスタントをやっている。
「おう、それな。床の白い線まで、引っ張っといてくれれば良いからな」
善男はフラッシュをたいて確かめ、それをやりながら匠に答えた。
「父さん、こっちは準備できてるよ。あとは照明を動かさなくちゃね」
「頼んだ、ちょっと父さんこれから、下でメールの確認をしてくる。照明動かすのが終わったらな、ホルダーの確認をしといてくれ。昨日までは取り敢えずキャンセルは1件も入っていなかったがな…」
そう言うと下の店舗部分へと独り言を言いつつ降りて行った。
「(この照明、台座が重たいなあ…)」
祖父の代からずっと使っている台座を匠がゆっくり動かす。
「(こっちにひとつ、あっちにももうひとつ…)」
匠は指示通りに動いていた。
「(さてあとはホルダーを確認して…)」
部品をひとつずつ確かめていく。
「(しかし今時ホルダーを使うの、うちの写真館くらいのものかな。デジタル全盛の世の中なのに…)」
年季の入った写真機を眺め、そばにあるデジタルカメラを見ると
「(やっぱりフィルムが良いっていうのも、なんとなく分かる気がしてくるなあ…)」
独特の味を持った写真機を、再び見つめて匠は思った。
―ピンポーン!
匠の家の呼び出し音が鳴り、誰かと善男が会話をしている。
階下での物音を聞き匠は
「(お客さんかな?早い…)」
と思った。
ほどなくして会話が終わったのか、階下はまた静けさに包まれて、代わりに今度は小さなきしみが階段を上る音に気がついた。
「(父さんだな…)」
ガチャリと扉が開くと匠は
「ホルダーも見たよ」
とすぐに言ったが、返事が無いのを不審に思ってすぐさま扉の方に振り向いた。
「…」
その瞬間、あまりのことにはっと、匠の体は硬直していた。
暗幕を開けた小さな窓から柔らかな光が差し込んでいる。
それは美しい女性にあたって、ふわふわと全身を包んでいた。
その女性は凛とした出で立ちで、匠の目を真っすぐ見つめていた。
「あの…初めまして。三条結衣(さんじょうゆい)です。今日一日、アルバイトで来ました。よろしくお願いします…」
匠はすぐ返事ができなかった。
「…。…えっと…あの。か、上山(かみやま)…匠です。」
お互いただ見つめたまま無言で、時間が止まったようにも感じた。
「あの…下でお父様がこちらで、手伝ってほしいとおっしゃったので…」
そう切り出す結衣の声を聞き取り
「はい…」
とだけ答える匠だった。
初めて見たのは佐賀競馬場で。
次に見たのは小倉競馬場で。
そして先日川崎で見かけたあの美しい女性がそこに居る。
いつもとは違い、髪を束ねつつ肩から下げた出で立ちであったが、ほのかな甘い香りと凛とした雰囲気に何も変わりはなかった。
「私は何をすれば良いでしょうか…」
その声に匠ははっとしながら
「えと…はい…すみません。…じゃあちょっとこのホルダーを確認して…」
既に確認し終わった道具をあたかもこれから見るような体で、作業机に置いてあるフィルムホルダーの方にすぐ向き直った。
「素敵…」
結衣が使い古されたホルダーにその細い手指を伸ばして言うと、隣に立っていた匠のそばで甘い香りがふわりと広がった。
匠は浮足立って感覚がなくなったような状態だったが、その香りがする方へと向かって、無意識に説明を続けていた。
「このホルダーをこうして抜いてから、中に埃がないのを確かめて…。もしあればこのブロアーを使って、こうやって吹き飛ばしてもらえれば…」
匠はブロアーを手に握りつつ、空気をプシュッと出す素振りをした。
するとなぜかプシュッと空気が出ず、プう~んとおかしな音が飛び出した。
「ふふっ、変な音」
結衣がくすっと微笑むのを見ると
「あ…は…ほんとうに…、いつもはこんなやつじゃ、ないんですけど…」
と、匠が更に続けた。
それを耳にして
「ふふっ」
と嬉しそうに結衣が肩を小さく揺らすと、かすかな甘い香りが広がって、匠はまたドキンと胸が鳴った。
そこに下で確認を終えてきた善男がぎしぎし階段を上り
「よう、自己紹介は済んだかい?」
と扉を開いて二人に尋ねた。
いつも通りの善男にほっとして匠が
「うん」
と言ったタイミングで
「はい」
と結衣もすぐに返事をして、二人は不意に目を見合わせていた。
「おお、なんだか息ぴったりじゃないか。いいねえ、もう仲良くなったのかい?」
そう言って善男が更に続けた。
「ところで今日は田中さん10時で、あとは順番に撮影するけど、結衣ちゃんにはここまでの受け付けと、案内を頼みたいと思うんだ。匠は撮影のアシスタントで小さい子相手だからよろしくな。いいか、泣かすなよ」
小さく頷く結衣の隣から
「大丈夫だよ、ちゃんとできるからさ。それに赤ちゃんを撮るわけじゃないし」
と匠が善男に答えた。
すると善男が
「そうじゃなくて、結衣ちゃんを泣かすなよ。困ったことがあればフォローしてな。撮影は父さんがばっちりして、名作を残すに決まってるしな!」
高笑いをする善男に向かって
「はいはいそうですね、分かりましたよ…」
と目を閉じて言う匠だった。
それを見た結衣が
「よろしくお願いします」
とゆっくり頭を下げると
「うん。じゃこっち」
と善男が階下へ結衣を伴って下っていた。
匠はその扉が閉まる音でようやく目が覚めた気分だったが、突然現れた結衣の姿に、まだ少し地に足が着かなかった。
「(まさかあの人がここに居るなんて…まだ何か、ちょっと信じられないよ…)」
匠はブロアーを手に持ったまま、そのままその場に立ち尽くしていた。
部屋には幻のように見ていた、結衣の香りがかすかに舞っていた。
次回予告
今まで幻のように見ていた結衣との対面を果たした匠。
善男のひと言で思いがけない方向へと時間が流れますが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり