競馬小説「アーサーの奇跡」第35話 大丈夫

登場人物紹介

上山 匠(かみやま たくみ)

当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る

上山 善男(かみやま よしお)

匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年

三条 結衣(さんじょう ゆい)

匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う

福山 奏(ふくやま かなで)

匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘

競馬小説「アーサーの奇跡」登場人物紹介

前回までのあらすじ

 

成人式の撮影の合間に、休憩を取ることになった匠。

結衣を一人居間に残したままで、ブランへとパンを買いに行きますが…

競馬小説「アーサーの奇跡」第34話 成人式

競馬小説「アーサーの奇跡」第35話

第35話 大丈夫

 

結衣を居間に残したまま匠はブランへとパンを買いに来ていたが、いつもより少し時間をかけると、奏の居るレジに足を運んだ。

 

「ねえ匠ちゃん…結衣さん来てるでしょ?」

匠がレジの上にトレーを置き、その内容を見た奏が言うと

「よく分かったな」

と目を丸くしつつ、驚いた顔で匠が答えた。

 

「だって焼きそばパンとアンパンしか買ってくれないあの匠ちゃんがさ?アップルパイなんか持ってきてれば、絶対に何かあるなと思うよ」

そう言うと奏は呆れた顔で、溜め息をついて匠を見つめた。

 

「好きなんだから別にいいじゃんかよ。あ、好きってのはパンのことだから…」

照れたように右手でポリポリ、頭を掻いている匠に向かい

「もうデレデレしちゃって、みっともない…」

奏が呆れたようにつぶやいた。

 

「ん。今おれに何か言わなかった…?」

匠が奏をじっと見ると

「650円になりまーす!」

袋に詰めてすぐに催促した。

 

匠はじっと奏を見たままで、無言で財布から小銭を出すと、トレーの上にぱっと広げて置き、奏がすぐにそれを確認した。

 

「700円ですね」

奏がレジに金額を打ち込む。

 

レシートが印字されて出てくると、釣銭を渡すタイミングを見て

「そうそう、それから今度来るときは、結衣さんもぜひって伝えておいて。唇も見てもらっただけから、何もしてない、大丈夫ですって」

奏が匠に声をかけた。

 

「ああ、この前のやけどのことだよな。まったくおまえはそそっかしいから…」

「いいからちゃんと伝えておいて。一字一句、間違えないでよ?」

奏が念を押して答えた。

 

「はいはい、商魂がたくましい…。結衣さんにもぜひ来てほしいと。あと唇は何ともないと…」

「何もしてない!」

奏が返した。

 

「え?「何もしてない」って言った?まあでも良かった、何もなくて…。ケアくらいはちゃんとしておけよ?」

「…」

奏はじいっと匠を見つめて、何か言いたげな顔をしていたが、匠が

「?」

ととぼけているので

「…まあいいや。ちゃんと伝えておいて」

そう告げてビスケットを入れた。

 

会計が済んで外へ出ると

「ありがとうございまーす!」

と聞こえて、その声を背中に受けて匠は、足早に家路を辿るのだった。

 

帰宅すると匠は手を洗って、忙しく居間の扉を開くと

「すみません、結衣さん。戻りました」

と明るい声で結衣に挨拶した。

 

結衣はまだ弁当箱を開いて背筋を伸ばして食事していたが

「おかえりなさい」

と匠に告げると、ふたを閉じてカバンにしまいこんだ。

 

「あれ結衣さん、もう終わったんですか?おれに遠慮せず食べててください」

匠が結衣にそう声をかけると

「すみません、詰めすぎちゃったみたいで…」

結衣が微笑みながら返した。

 

「それじゃあ、これももう要らないですか…?アップルパイを買ったんですが…結衣さんにどうかなと思って」

はにかみながら匠が言うと

「あ…それは…いただきたいです…」

ばっちりと視線が重なって

「あ…」

と結衣の頬が赤らんだ。

 

「良かった、元気はあるみたいで…。せっかくだし紅茶入れますね。お湯沸かすんでしばしお待ちを」

匠が後ろを向いて言った。

 

「あの、わたしも手伝いますから…」

結衣が席を立つのが分かると

「これくらい、僕にもできますよ」

匠が制するように言った。

 

「ごめんなさい…」

結衣がそう言うと

「…結衣さんにくつろいでほしくて。おれにできることはこれくらい…」

つぶやくように匠が言った。

 

その言葉を結衣が聞き取って、ゆっくりとまた椅子に腰掛けると、背筋を伸ばし、膝に手を重ねて、匠の背をぼんやり眺めていた。

 

「そうだ、それから奏のやつからの伝言を頼まれていたんでした。えーっと…またぜひ来てくださいと、唇も見てもらっただけだから、何もしてない、大丈夫ですって…そんなことを言っていましたよ」

薬缶(やかん)を火にかけながら少し、結衣に振り向いた匠を見つめて、結衣はただ目を丸くしてきょとんと、気が抜けたように椅子に掛けていた。

 

「結衣さん?」

匠がそう問いかけると

「あの…はいその、大丈夫です。わたし…。匠さん…大丈夫ですから…」

そう言って視線を下げていた。

 

「それにしても本当に奏って、そそっかしいやつなんですよね…」

微笑みながら匠が言った。

 

そんな匠に目を潤ませて、結衣がゆっくりと視線を戻すと、匠は湯が沸騰するあいだに

「そうだ」

とティーカップを探していた。

 

次回予告

 

匠の記念撮影をするため、結衣に残業を願い出た善男。

カメラに顔を向ける匠にふと、善男のひと言が伝わりますが…

 

次回:競馬小説「アーサーの奇跡」第36話 晴れの日

前回は:競馬小説「アーサーの奇跡」第34話 成人式

はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり

 

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