登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
前回までのあらすじ
思いがけず現れた馬車に乗り、再び決意を確かめた匠。
振り向く結衣のときめく眼差しに、何も言えずに身を焦がすのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第82話
第82話 暗雲
「ゴロゴロゴロ…」
東京の10レース、パドックに向かった結衣と匠は、溢れかえる人混みの輪の中で、垂れこめる暗雲を見つめていた。
「どうなんだ…。この天気、持つかなあ…。もうすぐダービーだっていうときに…」
空を見ながら言った匠に
「匠さん…傘は持ってきましたか…?」
結衣も空を見上げ、問いかけた。
「いやまさか…。あの朝の感じなら、絶対雨は降らないだろうなと…。まあどっちにしてもこの位置じゃ、この前みたいに撮れないでしょうが…」
匠は視線を落としながら、周囲の人混みを見てつぶやいた。
「そうですね…ごめんなさい。わたしが、お散歩したいって言い出したから…。もうちょっと早くこっちに来て、待っていられれば良かったんですが…」
「そんな、全然悪くないです。馬車に乗ったのもおれの提案で、結衣さん付き合ってくれただけだし…。それにこんな感じじゃおそらく、朝から張らないと無理でしょうから…」
とっさに謝った結衣を見て、匠もすぐ答えを返していた。
「匠さんは、ほんとに優しいです…」
「いやそんな…結衣さんこそほんとに…」
互いに気遣ってうつむくと
「ドーンッ!!」
と大きな音が鳴り響き、周囲は一転、騒然となった。
「雷だあ…!」
その声が聞こえると、冷たい風と共にぽつりぽつり、大粒の雨が人混みの中へ、一斉に降りつけてくるのだった。
「大変だ!」
口々にそう言って、パドックから観客が逃げ出すと
「結衣さんもう、おれたちも行きましょう!」
その様子に匠が声をかけた。
「あ、待って!」
そんな匠の声に、結衣が鞄に手を伸ばして言うと
「…わたし一応、傘持ってるんです。人が空いたから前に行きましょう?」
テキパキと折り畳みを取り出して、さっと開いて匠に差し出した。
「あ…え、でも!これじゃあ小さいです。おれはいいけど結衣さんが濡れちゃう…!」
「構いません。このための傘ですし…。それにこれは恵みの雨です。匠さん、頑張って撮ってるから…」
結衣の声に匠はググッと、拳を握って結衣に問いかけた。
「あの、結衣さん。傘、貸してくれますか?それで結衣さんはスタンド入って…」
そう言いかけた匠に向かい
「わたしもです…。わたしも見たいんです。アーサーが目の前を歩く姿…。だからその…ダメって言わないで」
匠の口をそっと塞いだ。
「(ドッドッド…)」
匠の胸は強く、早鐘を打つように高鳴ったが、結衣の眼差しにコクリ頷くと、手を離した結衣にポツリと告げた。
「…分かりました。でも、危ないときには、結衣さんだけでも下がってください…」
結衣はただ黙って見つめると
「…嫌です」
匠の声につぶやいて、傘の外に視線を逸らしていた。
「あの、結衣さん…?」
尋ねかけた匠に
「…一緒です。危ないって思ったら…。匠さんも危ないはずです。だからそのときはわたしだけじゃなく、一緒にちゃんと場所を離れましょう…?」
振り向いた結衣の目に匠は
「はい…」
としか、言うことができなかった。
「でも傘は…おれに貸してください。アーサーが出るまでで良いですから…」
つぶやいた匠の声を聞き
「はい…。それじゃあ、一緒でもいいですか…?」
結衣がその声に返していた。
コクリと頷く匠の仕草に
「よかった…!」
結衣が微笑んで言うと
「それじゃ、行きましょう…」
雷鳴のなかで、二人は一緒に歩き出していた。
パドックの中は10レースに出る馬たちが雷鳴にも驚かず、大粒の雨に体を濡らして、その背に騎手を乗せて歩いている。
「かわいそう…」
ポツリとつぶやく結衣の、肩を濡らす雨に匠が気づき、傘をそっとすり寄せるあいだにも、10レースの馬たちは出て行った。
「…こうなるとあとは、ダービーの馬が出てくるまでの我慢になりますが…」
強い雨に匠が小さく、結衣の隣でそう声をかけると
「―…」
結衣が黙ったままで、匠の顔をじっと見つめていた。
「あの、結衣さん…?」
匠が問いかけると
「…ごめんなさい…!」
結衣がそう返事して、匠が
「?」
と思った瞬間に、結衣が胸のなかに飛び込んでいた。
「―…!」
結衣は匠の肩に、もたれるように体を預けると、右手でぎゅっと服を掴みながら、震える声で匠につぶやいた。
「ごめんなさい…。あの、許してください…。こうしないと…匠さんが濡れちゃう…」
結衣の振り絞るような声に、匠は
「はい…」
としか、言えなかった。
暗雲に差した赤い雨傘が、頼りなく強い風に揺れている。
雨に煙る傘の外の景色を、甘い香りがそっと包んでいた。
次回予告
結衣の潤んだ瞳と重なって、ドキンと胸が鳴ってしまう匠。
自分を抑えるために唐突に、別の話を問いかけるのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり