競馬小説「アーサーの奇跡」第74話 猛時計

登場人物紹介

上山 匠(かみやま たくみ)

当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る

上山 善男(かみやま よしお)

匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年

上山 真弓(かみやま まゆみ)

匠の母。47歳。上山家を支えるベテラン主婦

三条 結衣(さんじょう ゆい)

匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う

福山 奏(ふくやま かなで)

匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘

競馬小説「アーサーの奇跡」登場人物紹介

前回までのあらすじ

 

結衣と距離ができるのを心配し、敢えて家に留まっていた匠。

善男の言葉に家を飛び出すと、危険な事態に陥るのでした…

競馬小説「アーサーの奇跡」第73話 許しません

競馬小説「アーサーの奇跡」第74話

第74話 猛時計

 

日本ダービーまでの2週間。

出走各馬は調整に追われ、善男の愛読する「競スポ」にもその熱気が紙面に溢れていた。

 

「おいおいおい、こりゃ凄いタイムだな!坂路4ハロン48秒!実戦並みの猛時計じゃないか、やっぱりビッグツリーは凄いぞ~!」

平日学校から帰宅すると、善男が居間で一人叫んでいた。

 

「ただいま…。なにを盛り上がってるの…?」

匠が真弓に問いかけると

「ほんと、騒がしい…。なんだか競馬のダービーに関することらしいわよ」

善男は普段、真弓の目の前であまり競馬のことを話さないが、年に数回のビッグレースでは、やっていることをアピールしていた。

 

「父さん、まったく…。母さんの前で。そんなに大声出しちゃっていいの?」

匠が小声で問いかけると

「いい、いい。まったくやってないよりは、ちょっとやってるくらいがいいんだよ。女ってもんはとんとギャンブルを毛嫌いしてるやつが多いからな。隠れてこそこそやっているよりも、時々見せておく方がいいんだ」

「なんだか母さん可哀想だなあ…。父さん結構突っ込んでるのに」

善男のもっともらしい発言に、匠はポツリ、首を傾げていた。

 

「うん?なあに?今何話してたの?」

台所から真弓が尋ねると

「いやいやいや!ビッグツリーってのがさ、すんごい調教タイム出しててさ…!」

善男が遮るように言った。

 

「はいはいそう…。まあよく飽きないわね。匠を巻き込まないでちょうだいね」

「あ、ああ…」

善男は言葉に詰まって、無言の匠と目を合わせていた。

 

「はあ、やんなっちゃう…。最近なんだか、玉ねぎすっごく高くなってるの。無くてもカレー、美味しくなるかしら…」

つぶやくように真弓が言うと

「う…うん。いや、やっぱり要るんじゃない…?」

匠はなんとか返事をしていた。

 

「はあ、そうねえ…。玉ねぎがないなんて、競馬がないより一大事よねえ…」

真弓が具材を切りながら言うと

「聞け匠。どちらかだけではなく、玉ねぎと競馬、どちらも大事だ。ああいう気分だけで話すような、考え方では馬券は獲れんぞ」

善男が匠に耳打ちしていた。

 

「うん…。確か小倉でも言ってたよね…」

思い出して返した匠に

「いや、よしよし。覚えてるんならいい」

善男が満足そうに頷いた。

 

「どうしたの?」

真弓が振り返ると

「いや別に…」

と善男が答えたが、匠は引きつった顔をしながら、夕飯をつくる真弓を見ていた。

 

「ところでお前、ダービーは結衣ちゃん、当然もう誘ってるんだろうな?」

「うん。先週、追いついた後でさあ、なんだかんだ約束もできてさあ…」

善男の言葉に匠はコクリと、はにかみつつ、答えを返していた。

 

「そうか、良かったな。その日は仕事も、特段忙しくないようにした。こっちの仕事は問題ないから、お前もバシッと勝負してこいよ」

「え?勝負?」

善男の言葉に匠はきょとんと、目を丸くしたまま問いかけていた。

 

「…結衣ちゃんに会って、半年が経った。告白するには早くないだろう。アーサーが今後競馬に出るのは、間隔が開くかもしれないからな。まあ父さんの出る幕じゃないけど、結衣ちゃんが待ってるんだとしたらな…」

「え…?」

匠は先週追いかけた際の、結衣のことをふと思い出していた。

 

「…匠さんのばか…」

結衣はそう言って、匠の隣で腰を掛けていた。

 

「ごめんなさい…」

匠はそうつぶやき、結衣の横顔をちらりと見つめた。

 

結衣の横顔は長い黒髪に隠れてはっきりと見えなかったが、決して怒気や嫌悪感からそう言ったのではない雰囲気があった。

 

「(ああそうか…「ひかれちゃう…」って言葉、嫌われますよっていう意味じゃなく、単に車に「轢かれちゃう」っていう、心配で言ってくれていたのかあ…)」

匠はあとを追いかけたことから、結衣が怖がっていると誤解して、「そんなことをしたら引かれますよ」と、諭(さと)されたのかと錯覚していた。

 

「(まったくおれってそそっかしいよな…。悔しいけど、小川さんが正しい…)」

緑の丘で言われたことを、改めて思い出す匠だった。

 

「(それにもっと前、結衣さんの前で奏をそそっかしいって言ったり…。奏にも悪いことをしたな…)」

がっくり一人、うなだれていた。

 

「…あの、匠さん?」

そんな匠を見て、結衣が気遣うように問いかけると

「…どこか痛みます?すみません、わたし…。ついさっきは動揺していて…」

匠を見つめながら答えた。

 

「あ、いいや…。おれが悪いですから。いつもならちゃんと送っていたのに…。なんだか結衣さんがおれのこと、避けてるんじゃないかなって思って…」

匠はまっくら祭りのあと、結衣が奏に声をかけたことや、休憩時間がずれ込んだことで、結衣と距離ができたような気がした。

 

「そんな…全然。そんなことないです。嬉しいです、いつも送ってくれて…」

結衣は匠の返す言葉に、驚いたようにそう答えていた。

 

「良かったです…。なんだか奏からは、大学も大変だって聞いてて…」

「そうですか…。はい。課題も多くて、授業も結構詰まってるんです。周りも内定取れてきていたり、色々動きが盛んになってて…」

「そうでしたか…。おれはほんとバカです。付きまとわれたりしてるのかなって…。そんなことは絶対嫌だし、焦って送りに来たってわけです…。でもそれで焦って来てみたら、むしろおれがそうだったのかなって…」

匠がうなだれてつぶやいた。

 

「…」

結衣は無言のままで、匠の横顔をじっと見ていた。

 

「…」

まだ結衣がじっとして、黙って匠を見つめているので、匠はその雰囲気に気がついて、ふと結衣の方に振り返っていた。

 

「?結衣さん…?」

顔を上げた匠が、押し黙っている結衣と目が合うと、結衣はその顔を真っ赤にしながら、口に手をあてて匠を見ていた。

 

「あ…」

匠はその眼差しを受け取って、ドキンと胸が鳴るのに気がつくと

「…行きましょう…?」

と言う結衣に促され、思わず並んで歩き出していた。

 

「…他に何か、奏さんと話は…?」

結衣が小さくそう尋ねると

「…いいえ、全然。さっさと帰れって、パン買ったら追い出されちゃいました…」

匠が思い出して答えた。

 

「そうですか…」

結衣はまたうつむいて、コクリと頷く仕草を見せたが

「どうしました?」

匠のその言葉に

「内緒です…!」

目を細めて微笑んだ。

 

5月の夕方、まだ明るいなか、きらきらと輝く結衣の瞳は、まるでその意味を伝えたいように、匠の目をまっすぐ見つめていた。

 

「…」

匠は浮足立ち、言葉を返すことができなかった。

 

そのまま匠は何も話さずに、結衣と改札口まで歩いたが、ふと訊きたかったことを思い出し、慌ててその背中に尋ねていた。

 

「あの、ダービー…!一緒に行きませんか…!?」

突然の匠のひとことに

「…はい…!」

にっこりと返事をした結衣は、笑顔のまま、ホームへ消えて行った。

 

「(結衣さん、ちゃんとオーケーしてくれた…。良かった、アーサーが出てくれて…)」

匠は改札口で一人、アーサーに心で感謝していた。

 

「(そうだ。おれは今アーサーがいなきゃ、デートにだってなかなか誘えない…。恋人になればどんなときだって、一緒に出かけられるようになるし…)」

匠は頷くと振り返り、灯り出す街燈を見つめていた。

 

「―結衣さんの気持ちは分からないけど、おれもおれなりに勝負してみるよ…!」

回想から目覚めるとすぐに、匠が善男の顔を見上げると

「ああそうだな。お前なりでいいんだ。そうじゃなきゃ、伝える意味がないしな…」

善男はそう言って微笑んだ。

 

「ところでな…」

匠を見た善男に

「うん、なんだい?」

匠が問いかけると

「アーサー坂路で54秒だ。前走から間隔がないからな…。それにしても正直タイムは、ビッグツリーとは比較にならんな…」

善男のつぶやいたその声に、匠は

「はは…」

と苦笑いをして、揺れる決意を押し込めるのだった。

 

次回予告

 

直前追いの時計の話題から、調教について問いかける匠。

匠の話す勝負の条件に、胸の内をうかがう善男ですが…

 

次回競馬小説「アーサーの奇跡」第75話 負けたなら?

前回は:競馬小説「アーサーの奇跡」第73話 許しません

はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり

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