登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
福山 奏(ふくやま かなで)
匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘
前回までのあらすじ
迷子になった少女を見送って、祭りの中に戻る匠と結衣。
匠が告げた言葉を聞き取って、思わず涙を流す結衣でした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第70話
第70話 素直にちゃんと
山車が出揃って祭りも終盤、結衣と匠はそれを見守ったが、華やぐ沿道の人に混じって、匠はなんとかそこに立っていた。
「(どうしよう、これ凄いぎゅうぎゅうだな…。競馬のときでも、こうはならないよ…)」
結衣に触れないように耐えつつ
「すす、凄い人混みですねこの辺…。ちょっと出ましょうか?押されちゃいますし…」
匠が焦りながら尋ねた。
「…平気です。それに見ていたいんです。大切な思い出になりますから…」
結衣は泣いた後も変わらずに、機嫌はよく、むしろ快活だった。
「(この前は何か泣いた後とかは、神妙な空気になっちゃったけど…。今日は「女性の日」じゃないのかな?)」
押してくる人混みに耐えつつ
「良かったです…」
匠はつぶやいた。
匠は結衣の体に触れぬよう、足を動かさず我慢していたが、絶えず周囲に押されていたために、ゆらゆらと体が揺れ出していた。
「匠さん…?なんか揺れていませんか?もしかして、押されたりしていません…?」
結衣がそう問いかけた束の間
「わったたた!」
匠は耐えきれずに、結衣の方へ体を崩していた。
「きゃ!」
驚いた結衣が声を上げて、匠をすぐに支えようとしたが、勢いが強く、匠はそのまま、結衣にもたれかかってしまっていた。
「あ…」
匠は結衣に抱えられるように、肩口からもたれかかっていたが、慌てて上半身を起こそうと、目を瞑ったまま立ち上がっていた。
「すみません!結衣さん、すぐ離れます…!」
匠が無我夢中で起き上がると
「あ、待って…!」
結衣の上半身を、巻き込むように腕に挟んでいた。
「あっ…」
結衣はそのまま匠の胸元に、飛びつくように抱き込まれてしまい、匠も目を開けてふと気がつくと、あまりのことに息が止まっていた。
「―…」
匠は結衣の顔が触れるくらい、目の前に近づいていたことから、「すみません」と謝ることもできず、黙ったまま、腕に抱きしめていた。
「匠さん…」
結衣は匠を見上げて、それ以上は何も言わなかったが、目が潤んでいることに気がついて、匠はとっさに目を閉じて言った。
「ごめんなさい。わざとではないんです…」
周囲に押し寄せる人混みで、身動きが取れなくなった匠は、精一杯誤解を解こうとして、結衣にひと言だけ、つぶやいていた。
「―…」
結衣は何も言わずに、ただじっと匠を見つめていたが、ほどなくふっとうつむくとそのまま、匠の胸の中にもたれていた。
「(―!)」
匠は甘い香りと温もりに、頭が真っ白になるのを感じ、早鐘のように打つ胸の音で、祭りのざわめきも消えてしまった。
「いいんです…わざとでも…」
結衣のつぶやく声が聞こえてきて、匠は何をどうすればいいのか、分からなくなって、息をのんでいた。
「(ドッドッド…)」
心臓の音だけが、二人の間を取り持っていたが、匠に身を預けた結衣の耳に、その音がはっきりと聞こえていた。
「(匠さん、すごく胸が鳴ってます…。嬉しいです…わたし、このままずっと…)」
結衣も自分の胸が鳴るのを、匠の腕のなかで聞いていたが、その瞬間、ふっと結衣の脳裏に、奏の声が思い出されていた。
「―正々堂々、勝負をしたいの」
それは奏がブランで結衣を見て、真っすぐに伝えたひと言だった。
「(そうだ、奏さん…。奏さんだって、きっと匠さんと一緒にいたい…。このままずっとこうしていたら、わたし…正々堂々と言えない…)」
結衣はすっと胸から離れて、ほんの少しだけ距離を取っていた。
「あの、結衣さん…。いいんです、そのままで…。もう周りも詰まっちゃってるし…。それに一人で無理していたら、相当足、疲れちゃうでしょうから…」
匠が結衣にそう伝えると、結衣も切な気に顔を見上げたが
「はい。でももう…あと少しでしょうから…」
結衣はそう言って前を向くと、匠を背に体勢を整えた。
匠は腕がほどけなかったため、そのまま寄り添うように見ていたが、やがて祭りが終焉していくと、腕のなかの距離も離れていった。
「あの、結衣さん…」
人が離れていくと、匠と結衣は沿道に残って、通り過ぎていく人波のなかで、取り残されるように向かい合った。
「はい…」
結衣は匠の声に頷き、うつむいたまま押し黙っていたが
「(わたしももう、素直にちゃんと言おう…)」
気持ちを話す決心を固めた。
「あのおれ…」
「あのわたし…」
互いにそれを言おうとしたために、二人が不意にその目を合わせると
「―…」
言葉に詰まったまま、二人ともすぐ、うつむいてしまった。
「…」
「…」
胸の音だけが高鳴っていると
「―あれ、どうしたの?」
ふと足を止めて、呼びかける声が二人に聞こえた。
「奏!」
「奏さん…!」
声のする方へ二人が顔を見上げて驚くと、その声を聞いた奏の方から
「なに?びっくりした~!」
と返事がした。
「まったく…なにやったの、匠ちゃんは…」
奏がそう言って切り出すと
「へ…?」
唖然としている匠を見て、納得したように奏が言った。
「―うんうん、お祭りを見には来たけど、ぎゅうぎゅうでよく見えなかったわけね。そんで匠ちゃん、ちょっと結衣さんに体がぶつかったりしたんでしょう?そりゃこの混雑じゃ仕方ないけど、場所は前もって決めておかなきゃね…」
そう遠くない推理のために、二人はつい、閉口してしまった。
「なに図星?分かりやすいわね、もう…。まあそれがいいところなんだけどさ…。デートの邪魔しちゃ悪いからさ、わたしもう行くから安心してね…」
奏はそう言うと結衣を見て、はにかむと、すぐに立ち去ろうとした。
結衣はその奏の表情を見て
「待って、奏さん!」
ととっさに告げた。
「わたしももう、これから帰るんです。あの、良かったら駅までご一緒に…。付き合っていただけないですか…?」
結衣の突然のその言葉に
「え?結衣さん…」
と匠はつぶやいた。
奏も驚き、目を丸くしたが、結衣の真剣な表情を見つめ
「じゃあ女子会!匠ちゃんはここまで。お持ち帰りされちゃ、かなわないしね…!」
匠にはにかんで告げていた。
「な!そんなことするわけないだろう…!?」
心外そうな声を出す匠に
「すみません、匠さん…。もう今夜は、奏さんに預けることにします…」
結衣も続けてそうつぶやいた。
「え?結衣さん、冗談も言うんだあ…。ははっ!おっかし…。まあ、そういうわけだし…」
奏は結衣のそのひと言に、笑いながら匠に答えていた。
「…」
匠は無言のまま、離れられずに立ち尽くしていたが
「…匠さん、今日も楽しかったです。本当にありがとうございました…。また後日、あの、写真屋さんで…」
結衣の固そうな決意を見て、匠もようやく受け入れて言った。
「こちらこそ…。色々至らなくて…。また来週、待っていますから…。それから奏。お前あんまり、遅くなるまで長話するなよ…」
そう釘を刺すと結衣を見つめ、頭を下げ、くるりと振り返った。
「ありがとうございました…」
背中に、結衣の声を受け取りつつ匠は、コクリと頷くとそのまま一人、何も言わず、姿を消していった。
「…すみません、奏さん。あのいきなり、こんな時間にお誘いしてしまい…」
結衣の声を受け取り奏は
「ううん…」
とその背中を見つめていた。
次回予告
匠と別れ、奏と二人きり、喫茶店で真実を告げる結衣。
結衣の悩みを聞き取った奏は、屈託ない返事をするのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり