登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。亡き父・栄一に代わり転厩直後のアーサーの緒戦に臨む
前回までのあらすじ
大逃げを打ったロングフライトに、沸き立つ歓声と不安な匠。
安堵の声も聞こえる一方で、結衣はただ前を見つめるのでした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第58話
第58話 真凛の手綱
「(落ち着いた…?)」
アーサーの鞍上で、真凛はロングフライトを見ていた。
前半1200m地点。
青葉賞の折り返し地点では、ペースが多少、落ちたように見えた。
「(ここからだ…。ペースが緩んだから、脚を使わずに上がれるはずだよ…。アーサー、そろそろ出して行こう…?このときをずっと待ってたんだから…)」
真凛は長く持った手綱を、短く持ち、態勢を整えた。
「(頑張らなきゃ。あなたはお父さんと、わたしの最後の絆なんだから…。無様な競馬は見せられない…)」
アーサーには調教時点で、何度かコンタクトを取っていたが、レースで乗るのは初めてのことで、真凛は折り合いを重視していた。
「(ここからは…さすがに追い上げなきゃ。前にいるあの子はダレてくれない…)」
前半1200mの折り返し地点に入ったことで、真凛はロングフライトのリードを詰めるようにアーサーに促した。
「(…)」
そんな真凛の指示に、少し加速したアーサーだったが、それ以上前に出ていかないため、真凛はすぐに違和感を覚えた。
「(あれ?アーサー…反応が薄いわね…。なんだか試されているみたい…)」
ハミを通して伝わる意思に、真凛は馬上から問いかけていた。
「(ねえ、アーサー…なんで前行かないの…?もう後半戦に入ったよ…?)」
レースの折り返し地点では、ロングフライトが大逃げを打って、30馬身近くの差をつけて、2番手のアーサーを離している。
序盤の真凛は慌てず騒がず、じっくり脚を溜めて追っていたが、アーサー任せの走りもさすがに、限界というところまで来ていた。
「(行かなくちゃ…!前は捉まんないよ…!あの子凄い速い馬だから…!)」
焦る真凛を見て後ろから
「おれたちそろそろ出して行っちゃうよ~!さもないと、バテちゃいそうだから~!」
2番手の真凛に声を掛け、後ろの騎手たちが追いかけてきた。
真凛はその声を無視して一人、アーサーへ馬上から尋ねていた。
「(どうしたの?まだ何もしていないわ!手応えだって残っているじゃない…!)」
真凛の指示をまるで気にせず、アーサーは黙々と走っている。
「それじゃ、お先~!」
喧嘩しているような真凛とアーサーのことを尻目に、後ろの騎手たちが位置を上げると、アーサーは馬群にのまれていった。
「(どうしたの…?調教ではあんなに、調子良さそうに走ってたじゃない…!返し馬もいい雰囲気だったし、悪いところを感じなかったのに…。さあもっと、上げていかなくっちゃ…!)」
スタンドではロングフライトの余裕の一人旅に見えていたが、真凛は手綱に残る手応えに、まだ余力があるのを感じていた。
「(あなたまだ…全然本気じゃない。全然本気で駆けてないでしょう…!?もっともっと前に出て行かないと、これじゃあインすら取れなくなっちゃう…!)」
3コーナーの大欅(おおけやき)から、いよいよ勝負所に入ったが、アーサーは真凛が思うほどには、決して加速しようとしなかった。
「(…こら、動け!こんなとこで終わっちゃ、何のために転厩してきたのよ!前を見て!ほらもうあんな小さく、ロングフライトが逃げているでしょう…!?)」
残り1000mを過ぎ去っても、アーサーはそれ以上ギアを上げず、4コーナーに差しかかりそのまま、前との差も詰まることがなかった。
「(どうしたの…!?もう、言うことを聞いて!確かに力は溜めているはずよ!どうして言うこと聞いてくれないの…!?)」
真凛の焦る仕草はすぐに、スタンドのファンにも確認された。
「おい、見てみろ!真凛のヤツあんなに、馬上で手綱を動かしているぞ!」
「あんな手応えじゃ差せるわけがねえ!やっぱりダート馬なんだあの馬は!」
周囲からそんな声が聞こえ、匠はその声に肩を落とすと
「ああ、結衣さん…ダメそうですよ、これは…。せっかく来てもらいましたけど…」
アーサーの手応えにポツリと、諦めたような声でつぶやいた。
「…」
結衣は無言のままで、ぬいぐるみを強く抱きしめていた。
―さあさあ残り少なくなってきた!ロングフライトがまだまだ先頭!十分差がある!最後の直線、独壇場のラストになりそうだ~!―
「ワアアアアッ!」
実況の声に呼応するように、スタンドから歓声が沸き上がる。
いよいよロングフライトの鞍上、伊達がチラと後ろを振り返った。
「鉄板だー!あの仕草は相当、手応えが残ってるときのやつだー!伊達があれやって差されたのは、一度だって見たことが無いからな~!」
ロングフライトのファンの声に圧倒されていた匠だったが、変わらずその差が縮まらないため、諦めたように息を吐いていた。
「はあだめだ…。これはもう無理ですね…。こんなに強い馬が居るとは…」
弱気な匠の声を聞いて
「…」
結衣は前を見つめていた。
―さあさあ残り600mだ!断然先頭はロングフライト!まだまだリードは20馬身ある、さすがにこれはセーフティーリードか~!―
ファンの声が更に沸き上がり、中には拍手をする者まで居た。
「はっはっはー!こりゃもう逃げ切ったな~!なんちゅう馬が出て来たもんだよー!ダービーの時もまたこれ頼むぞ~!」
勝利を手にしたような声で、近くのファンも声援を送った。
「(確かにこれじゃあ良くて2着かな…。それすらもう、厳しそうだけど…)」
匠はその声に押し黙り、カメラを下ろしたまま、黙っていた。
次回予告
絶体絶命の差をつけられて、呆然と回想に耽る匠。
善男の言葉を思い出しながら、結衣の声に視線を移しますが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり