登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
荒尾 真凛(あらお まりん)
女性騎手。22歳。亡き父・栄一に代わり転厩直後のアーサーの緒戦に臨む
前回までのあらすじ
サプライズで渡したぬいぐるみに、結衣の心情を確かめる匠。
大事な人を大事にするために、大切なことを思い知りますが…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第56話
第56話 シャッターチャンス
パシャパシャ。
青葉賞のパドックが始まって、匠はカメラを振り向けていたが、ひとしきり撮り終えると結衣を見て
「どうですか…?」
と感想を尋ねた。
「そうですね…。すっごくきれいですし、毛ヅヤもふわふわで柔らかいです。他の馬と比べてもひと回り、お尻も大きく張っていますから…。大丈夫かなって思います」
アーサーの仕上がりを見つめて、太鼓判を押す結衣に安心し
「それじゃ俄然、今日は楽しみですね!」
弾む声で匠が返した。
「はい…!でも結果は分からないですし、わたしの感想に過ぎませんから…」
「そうですけど、さっきのレースにしろ、やっぱり1着に来てますからね…」
匠と結衣は場所取りのため、ひとつ前のレースから見ていたが、パドックだけ見て馬券を買わずに、結果をビジョンで確認していた。
「偶然です…!きっと今日神様が、いろいろ良くして下さってるから…」
微笑む結衣の声に匠は
「結衣さんはほんと、驕らないですね…。おれだったら鼻が伸びますよ…」
鼻に手を当てながら答えた。
「ふふっ…!それだとご飯食べるときに、いっぱい鼻にネギ、ついちゃいますね…!」
微笑む結衣の顔を見つめて、苦笑いを浮かべる匠だった。
「そういえば…。結衣さんは見るときに、考えながら見ているんでしょうか…。なんだか考えながら見ると、頭がごちゃごちゃになってきますが…」
突然思いついた調子で、匠が結衣に質問してみると
「あ…それはあんまり、良くないですよ。見るときは考えないでよく見て、浮かんだ印象を大事にします。そうしないと、見過ごしちゃいますから…」
結衣は穏やかに答えていた。
「あとお尻ならお尻だけ見るとか、見比べた方が見やすいですけど、やっぱりそれも良くないんでしょうか…?」
匠が続けて問いかけると
「それだとバランスがよく見えなくて、全体の良さがよく分かりません。それにここは最前列ですから、向こう正面も見ているくらいで…。とにかく全体が大事です」
結衣は匠がかける言葉に、ひとつずつ丁寧に答えていた。
「なるほどなあ…。まず全体が大事…。向こう正面も確認して…」
頷いている匠に結衣が
「でも一か所、ここだけと言うのなら、お尻の付け根をよく見てください」
そう言って馬を指し示すと
「あそこです?あのお尻の上あたり…?あそこに何かあるんでしょうか?」
「それがその…。アーサーもそうですが、あそこが張ってる馬は強いです…」
結衣が頷きながら答えた。
「そう言えば…。中山競馬場で「トモが大事」って話聞きました。ビッグツリーが凄いみたいで、実際レースも強かったですね…」
匠は中山競馬場で先程結衣の隣に立っていた、若い男が話していたことを、誰とは言わずにそう話していた。
「匠さんは、この前はアーサーを中山競馬場で見ていますね…。何か違うことはありますか?」
今度は結衣が問いかけていた。
「そうですね…。この前と変わらずに、いい感じの馬体だと思います…。でも川崎のときと比べて、成長した感じもするかなって…。それに変かもしれないですが、毛色が濃くなった感じもします…」
「馬体重も増えていますよね。お腹がすっきりしていますし、幅が増えたような感じもします…。毛色もわたし、好きな毛色で…。こういう濃いのは良いかなって…。でもわたし、あまり前のことは、実はあんまり気にしてないんです。だからいつもしっかり見ないと…」
結衣の意外なそのひとことに、匠は一人、隣で頷いた。
「そのときに全力ってことですね…。それが結果を引き寄せている…」
感心する匠の口調に
「そんな凄いものか分からないです…。でもアーサーは線がきれいで、それだけはちゃんと覚えているので…」
結衣はぬいぐるみを抱いたまま、匠のその声に微笑んでいた。
「止まーれー!」
という号令がかかり、馬たちが一斉に立ち止まると、アーサーの背では真剣な顔の荒尾真凛が手綱を取っていた。
「あれが真凛さん!かっこいいですね…」
つぶやくように結衣が告げると
「頑張れ真凛―!応援してるぞー!」
「大丈夫、ファンもついているからなー!」
温かな声が聞こえてきた。
「真凛さん、人気あるみたいですね…」
カメラを覗く匠が言うと
「そうですね…。アーサーも似合います…」
結衣も小さな声で答えた。
やがてアーサーの背中に跨る、真凛がゆっくり近づいてくると
「(よし、いいぞ…)」
匠は脇を締めて、パシャパシャとシャッターを下ろしていた。
そうしてどんどん距離が近づいて、いよいよ匠の目の前に来ると、ファインダー越しに映った真凛が、ふと何かに微笑むのが分かった。
「(おぉ…)」
匠は不意に微笑んだ真凛の表情を撮ることに成功して、過ぎ去る後ろ姿も収めると、撮り終えて結衣に話しかけていた。
「いま真凛さんが、なんだか笑顔になった一瞬があったようですが…」
匠は結衣に振り向くとすぐ、撮影中のことを話していた。
「はい!実はアーサーのぬいぐるみが、真凛さんの目に入ったみたいで…。この子の手でバイバイをしたら、わたしに笑いかけてくれたんです…。すっごく優しい笑顔でした…!」
嬉しそうにぬいぐるみを抱き、結衣が声を弾ませてそう言った。
「匠さんの、サプライズのおかげで…」
結衣がぬいぐるみに目を細め、胸により深く抱きしめて言うと
「…」
匠はその言葉に、胸が熱くなるのを感じていた。
返し馬に向かう馬たちを追い、パドックから人が立ち去っていく。
閑散としたパドックで匠は、ひと言だけ結衣につぶやいていた。
「よかったです…」
その声に頷いて
「はい…」
と目を細める結衣を見つめ、匠はポリポリと頭を掻くと、はにかんだまま視線を下げていた。
次回予告
ついにスタートを切った青葉賞。それを間近で撮影する匠。
ライバル・ロングフライトの走りに、スタンドからどよめきが巻き起こり…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり