競馬小説「アーサーの奇跡」第48話 青葉賞当日

登場人物紹介

上山 匠(かみやま たくみ)

当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る

上山 善男(かみやま よしお)

匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年

三条 結衣(さんじょう ゆい)

匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う

福山 奏(ふくやま かなで)

匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘

競馬小説「アーサーの奇跡」登場人物紹介

前回までのあらすじ

 

転厩したアーサーの鞍上に、抜擢された女性騎手の真凛。

亡き父への思いを繋ぎながら、次走青葉賞へ向かうのでした…

競馬小説「アーサーの奇跡」第47話 荒尾真凛

競馬小説「アーサーの奇跡」第48話

第48話 青葉賞当日

 

「結衣、頑張ってね…」

母・春(はる)の思いもよらぬ言葉に、結衣はただ鏡の中を見ていた。

 

「…」

結衣は何と言ったら良いのか分からず沈黙していた。

 

「いいのよ、そんなに気にしなくっても…。当然じゃない、年頃なんだから…」

結衣の背中でつぶやく春が、鏡のなかでそううつむいていた。

 

「お母さん…」

丘の上の団地には、母と娘が二人暮らしてきた、飾り気のない穏やかな光と、静寂の影が湛えられていた。

 

「いってきます…」

玄関を出る結衣に、「いってらっしゃい」は聞こえなかったが

「素敵よ、結衣…」

と告げた春の声が、電車の中の結衣に響いていた。

 

「―いいんですか?じゃあ、店で待ってます!」

匠とのメールを読み返しつつ、春の表情を思い出す結衣は、複雑な気持ちをいだいたままで、いつものように府中で降りていた。

 

「競馬だけは、やったらダメだからね」

春は結衣が成人した当時も、はっきりそう言葉で伝えていた。

 

「(でも、わたし…)」

結衣の揺れる心を、励ますように外は眩しかった。

 

「(良かった…こんな青空になって。あ、そうだ…)」

府中の駅で降りるとすぐそばの百貨店に結衣は足を運んで、立ち姿を再び確かめると、匠の待つ写真館へ向かった。

そのころ匠は善男の馬券をまた頼まれているところだったが、アーサーがどんなレースをするのか、その予想に耳を傾けていた。

 

「―つまり、アーサーは今日は逃げないと」

匠が善男にそう質問する。

 

「たぶんな。この前ビッグツリーに前から行って交わされているしな。なんと言っても真凛ちゃんが乗るし、二の轍を踏むことはないだろうな」

「そうそうそれも聞きたいんだけどさ、この荒尾真凛ていうジョッキーは、いったいどんなふうに乗る人なの?」

競馬新聞の馬柱に書かれた騎手欄を指して匠が尋ねた。

 

「一言で言えば積極的かな。親父さんを事故で亡くしてるけど、復活した精神力もあるし。戻ってきてまだ一か月だけど、既に10勝の固め打ちだしな。前から行くか、後ろから行くかは、流れを読んで決めていく騎手だな」

「ああ流れ…。それも聞いていいかな。前に川崎でハイペースだとかなんだとか耳にしていたんだけど、今一その意味が分からなくって…」

匠の真剣な表情に、善男も真面目な口調で答えた。

 

「流れってのはペースのことだがな、これは全体のタイムによるんだ。たとえば二千メートルを2分で走り切ればその半分にあたる、千メートルの通過が半分の1分丁度ならミドルペースだ。前半が速ければハイペースで、逆に後半速いときはスロー。レースの時はこの3つのどれか、それが流れを決めるペースになる」

「つまりレースの半分の通過が速いか遅いかが問われるんだね」

「そうそう、よく分かっているじゃないか。ハイペースだと前半で疲れて差し馬が届きやすくもなるけど、逆にスローペースだと楽逃げで、後ろが届かずに終わったりする」

軽く頷きながら匠を見てひとつずつ説明をする善男に

「へえ、父さん。ちゃんとそんな理論を知ってて馬券を買っていたんだね」

「だから言ったろう、お前は父さんの予想の腕が分かっていないと。でもそれだけで予想が当たるほど、競馬予想は簡単じゃないんだ。ハイペースでも短距離戦などはそれが当然で前が残ったり、雨が降って地力勝負になると、これまた前が残ったりするんだ。距離や馬場状態でも変わるから、あくまで参考程度と言えるな」

感心する匠をチラリと見て、善男が腕を組んでそう答えた。

 

「ちなみに今日のレースはアーサーに向いたペースになりそうなメンバー?」

「どうかな。今回は大逃げを打つ、ロングフライトが人気馬だからな。ペース自体はハイペースだろうが、馬場はイン前有利と言えるから…。アーサーは基本前に行くし、距離延長もあるから何ともな。大逃げの相手も初めてだしな…」

アーサーの前走敗戦を、善男ははっきり予知していたため、不安気な顔で尋ねた匠に善男は真剣な顔で答えた。

 

「そんなに色々知ってるんだから、いつも勝ち馬が分かるんじゃないの?」

そんな善男に問い返す匠に

「それはまさに驕り(おごり)っていうもんだ。どんなときでも想定外だとか、運の影響があるものだからな」

善男は自分自身をも含めて、言い聞かせるような口調で言った。

 

「ふうん。だから父さんは元日に、神様にお礼をしたってわけね」

「意味の無いことをすると思ったか?」

今度は得意気になった善男に

「でもわざわざ、初詣のときまで競馬新聞持って行かなくても…」

匠がつぶやくように言った。

 

「なに言ってる。そのおかげで父さん、大吉を見事引き当てたんだぞ。これぞ清らかな心の結果だ!」

「はいはい…相変わらず元気だねえ…。でもそれじゃあ凶を引いた人たち、心が清くないみたいじゃないか…」

どこか呆れたような口調で、善男に言葉を返した匠に

「それは違う。凶っていう結果は、大吉に近いものでもあるんだ。元々持っていた問題点と向き合う時が訪れたサインだ。大体人間は自分自身のまずい部分に目を瞑っているが、そういう結果が出たとき初めて、向き合うことを覚悟したりもする。夜が過ぎれば朝が来るわけだし、向き合って乗り越えられた時には…」

善男は真剣な表情で、諭すように匠に答えていた。

 

「父さんは、凶を引いたことあるの?」

真っすぐ尋ねる匠に向かって

「もちろんある。あのときは高校の受験前に身が入らなくってな。第一志望のとこに落っこちて、第二志望が補欠繰り上がりで…。ヒヤヒヤした思い出があるな。でも何も遊んでたわけじゃないし、なんとなく身が入らなかったんだ。それにその事があったから今は、身を入れてやる大切さを知った」

そう頷いて善男が言った。

 

「へえ、父さんにそんな昔がねえ…。母さんはそのこと知ってるのかな?」

「言うわけない。なんで惚れた女に、わざわざそんなこと言わなきゃならん」

「父さん、のろけてる…」

そんな会話を二人がしていると

―ピンポーン!―

チャイムの甲高い音が、玄関の方から響き渡った。

 

「…!」

その音を聞いて匠は早速、玄関のドアを慌てて開くと、初夏のまぶしい光のその中に、背筋を伸ばした結衣が立っていた。

 

「―おはようございます…!」

まぶしい光の中でそう告げる、結衣の笑顔に固まった匠に、善男は何とも言えぬ表情で、ポリポリとその頭を掻いていた。

 

次回予告

 

迎えに来た結衣と二人並んで、東京競馬場へ向かう匠。

思いがけず結衣が言った言葉に、匠はまた耳を赤くしますが…

 

次回競馬小説「アーサーの奇跡」第49話 入場券

前回は:競馬小説「アーサーの奇跡」第47話 荒尾真凛

はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり

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