登場人物紹介
上山 匠(かみやま たくみ)
当物語の主人公。20歳。アーサーをきっかけに競馬を知る
上山 善男(かみやま よしお)
匠の父。53歳。上山写真館2代目当主。競馬歴33年
三条 結衣(さんじょう ゆい)
匠の憧れ。年齢不詳。佐賀競馬場でアーサーと出会う
福山 奏(ふくやま かなで)
匠の幼馴染。18歳。近所の名店「ブラン」の一人娘
前回までのあらすじ
アーサー転厩の報道を受け、様々な想いを巡らす二人。
相馬談義に花を咲かせながら、距離を縮める結衣と匠でした…
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第46話
第46話 何も言えずに
「匠さん、ありがとうございました」
喫茶・欅を出るとすぐに結衣が匠に向かって一礼をしたが、そんな結衣を見て匠はすかさず
「いやその…おれのお金じゃないですし、結衣さんに対するお礼ですから…。店も売り上げが上がってるし、逆にこちらこそ何かすみません…」
慌てて結衣に頭を下げた。
「くすっ…」
そんな匠の方を見て、結衣が穏やかに微笑んでいると、その笑顔に匠は見とれたまま、言葉をなくして立ち尽くしていた。
街燈が照らし出す結衣の顔は柔らかな輪郭を作り出して、絵画や写真の中に描かれた幻のように縁取られていた。
「…」
「そういえば、アーサーはダービーでは、この競馬場を走るんですよね」
見とれている匠に気がつかずに、指し示しながらつぶやいた結衣に
「…そうですね…」
匠がそう返すと、ようやく時間も溶け出すのだった。
東京競馬場外周道路。
喫茶・欅を出るとそこからすぐ、東京競馬場の柵が見える。
匠は
「アーサーがこの府中で競馬をする日がやってくるなんて…。佐賀で見ていた時はまったく、想像できないことばかりでした…」
懐かしむような視線を馳せ、その柵を見ながらつぶやいていた。
「東京競馬場…きれいですね…」
結衣の香りが春風に舞い、匠は不意にまた止まっていたが
「匠さん?」
結衣が問いかける声に
「ああ…え~っと。その、これからあのう…本町の改札に送りますね」
我に返って返事を告げた。
結衣はそんな匠を見つめて、祈るように両手を胸に置くと
「…わたし、京王線でも帰れます。もうちょっとだけ、お散歩したいです…」
ポツリとつぶやくように言った。
「え…?」
驚いてつぶやく匠に
「だめ…ですか?」
結衣はその目を伏せて潤ませると、両手を強く胸に握っていた。
「あ、いや全然、だめじゃないですよ…。え~っとそれじゃあ…こっち行きましょう…」
匠は結衣の声にそう返すと、耳を真っ赤にしたまま目を伏せて、右手で頭をポリポリと掻くと、ぎこちなく前へ歩き出していた。
「(え~っと…。こりゃまた何と言ったら…。こういうとき、どうしたらいいのやら…)」
頭が真っ白になりながら、ただ前へ一歩踏み出す匠に
「嬉しいです…」
結衣がポツリと言うと、いつの間にか隣を歩いていた。
「(…え~っと、おれ…何か話さなくちゃ…)」
匠はますます沈黙した。
「…」
「…」
喫茶店まで歩いていたときは、結衣も色々見て話していたが、今はただ黙ってうつむいたまま、何も言わずに肩を並べている。
匠も緊張のあまり黙って、何も言わずに歩くだけだったが、気づくと大邦(おおくに)神社の鳥居を、二人並んでくぐろうとしていた。
「…神様…」
結衣がささやいた声で、匠がふと視線を馳せてみると、結衣は目を瞑り、両手を合わせて、小さく鳥居にお辞儀をしていた。
「(…おれもやろう)」
匠も目を瞑って、一礼してふと顔を見上げると、結衣が真っすぐに匠を見つめて
「…ありがとうございました」
と言った。
「え?いやあの…。喫茶店のことなら、あくまで結衣さんへのお礼ですし…むしろ気を遣わせちゃったかと…。気の利いた話もできなくて、おれの方が何か申し訳ない…」
すまなそうに頭を掻きつつ、結衣の視線に目を伏せた匠に
「…」
結衣は黙ったままで、何か言いたげに立ち尽くしていた。
「…?」
結衣の気配に気づき、匠がふとまた視線を上げると
「…本当に、ありがとうございました…」
そう告げる結衣の頬にすっと、一筋の涙が流れていった。
「げ!すすす、すみません!おれが何か、失礼なこと、言っちゃってましたか…!?」
突然のことに匠はすぐ、慌てて結衣にそう尋ねていたが
「…いいえ、違います…」
肩を震わせて、かすれる声で結衣は答えていた。
「ゆ、結衣さん…?」
心配する匠に、結衣は涙をすぐに手で拭うと
「…わたし…その…」
両手を胸に当てて、落ち着かせるようにつぶやいていた。
「何かつらいことでも、ありましたか…?」
匠の声にうつむく結衣は
「いいえ…匠さん、優しくて…それで…」
思いつめた様子で答えた。
結衣の長い黒髪は気がつくとバイトをしていた時とは違って、きれいにほどけて夜の神社でも分かるくらい風に艶めいていた。
「…」
何も言えず匠は、ただ黙って様子をうかがったが
「…すみません、ここを出たら駅ですね…。あまり遅くなるとお父様にも、ご心配を掛けしてしまいますから…」
そう言って結衣は前を向いた。
「(こういうとき、おれは何て言ったら、結衣さんの力になれるんだろう…)」
答えが出ないままで匠は、結衣の背中を見て歩いていった。
次回予告
突然の結衣の涙に驚き、何も言えずに歩いて行く匠。
一方アーサーの新コンビには、荒尾真凛(あらおまりん)が選ばれるのでした…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり