前回までのあらすじ
秋の穏やかな日差しに抱かれて公園で休憩をとった匠。
その思い出を胸に川崎へと一人足を運ぶことにしますが…。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第20話
第20話 全日本2歳優駿当日
夕方の南武線。
川崎駅を降りると送迎のあるバス停へと匠は向かった。
地下街はとても混雑していて人混みを避けるように歩いたが、きらびやかな店が並ぶ通路は横から斜めから人が出てくる。
「(あの喫茶店は、いい雰囲気だな…)」
鎌倉記念当日も匠はキョロキョロしながら通った道だが、2回目の今日も物見をしながら地上への出口を探すのだった。
「(ほんとにまるで迷路みたいだよね…)」
なんとか出口を探し当てながら、階段を上り地上へと出ると
「はい、出発しまーす!」
と案内をするおじさんの声が聞こえてきた。
慌てて飛び乗るとまだ客席はいくつか空いた席も見つけられて、迷いながらも腰を下ろすとすぐ、バスは車体を揺らし滑り出した。
川崎駅からのバスは無料で、普段乗るようなバスと変わらない。
車内には仲間同士と見られる何人かの会話も聞こえてきた。
「今日、あのアーサーが出るんだってよ。ホラ、このまえ鎌倉記念勝った。佐賀競馬の馬がここに出るって、実際、珍しいことなんだよな」
「ああ、でもこの馬は強いからねえ。まさかノースペガサスを負かすとは。おれはあのとき沖と心中して、写真判定で持ってかれたよね」
「心中した割には元気だねえ、幽霊なんかに見えないけどなあ」
わっはっはと笑うおじさんたちの、たわいない会話が広がっている。
匠は2か月前を思い出し、ふとパドックに居た結衣を想った。
「(そういえば、あのときは最後のとき、結衣さんが猫を撫でていたっけな。もしかして今日も会えるんだろうか…)」
そんなふうに匠は思っていた。
七五三で匠の実家である写真館にアルバイトに来た結衣。
昼休憩が終わったあとはすぐ、忙しい一日が過ぎていった。
むしろ結衣がいたからこそ時間が経つのが早かったのではないかと、終業後の別れを思い出して、匠はぼうっと車窓を見ていた。
「今日はありがとうございました。本当に素敵な一日でした」
心からそう言う結衣の瞳に、匠は見とれているだけであった。
最後チラと目が合いはしたのだが、何と言って良いか分からなかった。
「こちらこそありがとうだよ、結衣ちゃん。今日は本当に助かったよ。またもしこういうときがあったらさ、そのときも手伝ってくれないかな。お客さんも凄く喜んでたし」
善男が最後に結衣に伝えると
「嬉しいです!ありがとうございます。そのときはきっとお電話ください。それじゃ、お二人とも…お元気で」
明るい笑顔で会釈していった。
夕日を受けて歩き出す背中は、凛とした夏のときのままだった。
結衣が帰るのを見送った後で
「あんなきれいな子とは驚いたな。電話の感じも良かったんだけど…。ああいう娘がいたら父さんは、なんだか心配しちゃうところだな」
匠をのぞき込んだ善男を見て
「じゃあ、おれが男で良かったじゃない。神様とおれに感謝しなくちゃね」
匠はすぐさまそう返事をした。
「こういうところが娘だったらな、言わないのかもしれんのだけどなあ。そうだお前、今から女になれ~!」
「何すんだ父さん、やめてくれー!」
いきなり匠の股間をはっしと右手で掴んだ善男に匠が、慌てながらその手を振りほどくと、そそくさと店へ駆け込んでいった。
「はっはっは」
笑う善男をよそに匠の目は結衣の居た受け付けへ注がれると、かすかに残る香りに誘われて、吸い込まれるように留まっていた。
匠がそんな回想をするうちバスが停車して扉が開くと、乗客はみな一斉に出て行き、入場口へ吸い込まれていった。
匠もそれを真似て外へ出ると、後に続いて入口へ向かった。
100円玉を入れて中に入り、賑わいを見せるパドックに出ると、今度は無意識に結衣を見つけたパドックビジョンに目を移していた。
「(…居ないか)」
匠はふっと一呼吸を置くと、アーサーの出ることを思い出して、まずは善男に頼まれたアーサーの単勝馬券を買いに出かけた。
「いいか、匠。今日のレースはな、相当強い馬が揃っている。こういう時はオッズが割れやすく、単勝でも十分妙味がある。しかもアーサーは距離延長から川崎競馬場を制している。今日は行ける、飛ばし過ぎなけりゃな。ほら、お前の分も渡しておくぞ」
善男は匠のおかげで当たった馬券だといつも話してはいたが、アーサーが出るときは軍資金にいつも1万円を出すと言った。
「そんなに?いいよ。おれは儲けるのが楽しくて買ってるわけじゃないしさ。どうせ写真を撮りに行くんだから、ついでのお遣いくらいのもんだし」
そんな匠に
「そうか…お前はギャンブルじゃなくて、アーサーの応援がしたいんだな。それはそれで良いことだと思うが、結構苦難な道かもしれんぞ」
善男はそう言って頷いていた。
善男がカメラの修理が終わったお客の受け取りがあるというので、前回同様遣いを頼まれた匠がそれを思い出していた。
「(父さん、なんでああ言ったんだろう。あんまり考えずに出てきたけれど…)」
苦難の道という意味が分からずふとそのことを考えているうち、気がつくと発券機の前につき、粛々と馬券を受け取っていた。
「(なんだか、ちょっとずつ慣れてきたかな)」
初めての佐賀競馬から4度目、小倉ではひと悶着はあったが、おかげで注意しながらも自然と馬券を買うことが身についてきた。
「(なんだか、ちょっとギャンブラーみたいだ)」
匠が馬券を買わないのならと、3万円も弾んだ善男から
「これで勝ったらラーメンに行こうな!」
そう言われたのを思い出していた。
「(いったい父さん、何万円するラーメンを食べに行く気なんだろう…)」
ふふ、と笑う匠は顔を上げ、またパドックへと引き返していた。
次回予告
馬券を滞りなく買い終えてほっと一安心していた匠。
アーサーを待つパドックで突然かけられた声に驚きましたが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり