前回までのあらすじ
川崎の鎌倉記念参戦の知らせを受け取った匠ですが
アーサー観戦は善男のいない一人での参戦になるのでした。
目次
競馬小説「アーサーの奇跡」第11話
第11話 馬主・武内
川崎競馬場の馬主席。
鎌倉記念当日のここでは、アーサーの馬主・武内昇(たけうちのぼる)が、じっとその時を待ち構えていた。
「(そろそろか)」
満を持したという面持ちになり武内が歩を進めたその先は
アーサーの歩く姿が煌々と照らし出されたパドックであった。
その日のメインレースとなっている鎌倉記念のパドックとはいえ
1レース前のレースが先ほど発走した直後で隙間がある。
その立ち見客の間をすり抜け最前列の手すりに手を置くと、武内は自分に気づいた厩務員(きゅうむいん)の村口(むらぐち)に軽く手を挙げた。
「(よし、いい出来だ)」
「(武内さん?)」
背筋を伸ばし堂々としている、ライトブラウンのスーツの男に、アーサーの手綱を手に持っている村口は驚いて会釈をした。
「(ふふ、村口のやつ、驚いているな)」
それを見た武内はニヤリとしてアーサーの馬体に目を細めつつ、それからふと周囲を確認して、その空気感に高揚していた。
そして再びアーサーが目の前に来るともう一度軽く頷き、それを見た村口もまたコクンと、軽く会釈をして通過していく。
―パシャパシャッ―
その武内の隣では何やら熱心にカメラを振り向けている、まだ二十歳になったばかりくらいかという若者の姿に気づいた。
「(おお、青年が撮影しているな。まだ二十歳になったばかりくらいか?)」
武内は不意に隣で写真を撮っていた若者と目が合うと、その若者は少し遠慮がちにまたカメラの先を見つめ直した。
「(ふふ。こりゃまだ競馬を始めてから、いくらも経っていない雰囲気だな。どれ、どの馬を撮っているんだ?)」
少し興味を抱いた武内が若者のカメラの先を見やると、どうやら熱心にアーサーへ向けしきりにレンズを調整している。
そしてまたアーサーと厩務員の村口が近くを通り過ぎたが、どうも若者はアーサー以外に特に興味を持たないようだった。
「(ほう。この青年、アーサー以外はまったく目に入らない感じだな)」
ずっとアーサーを追いかけるようにレンズを振り向ける若者を見て、面白くなった武内はニヤと笑って若者の肩を叩いた。
「やあ。君はさっきからそうやってアーサーばかり撮ってるようだけど、そんなにお気に入りの馬なのかい?」
突然話しかけた武内に、驚いた表情をしながらも
「あ…はい。その…なんていうか…」
若者は武内に受け応えた。
「いい馬だろう?あの馬は。何とも言えない雰囲気があるよな」
武内の落ち着いた口調を聞き
「…はい。馬のことは正直、まったく僕には分からないんですけど…」
と若者がはっきり答えた。
「正直だな。ふふ。で、君は特にどこが気に入ったんだい?」
快活な口調からにじむような、優しさを感じられるその声に、若者も少しほっとしたように、しかし少し遠慮がちに答えた。
「えっと…やっぱり雰囲気ですね。なんていうかすごくきれいな馬で…」
遠慮がちだがその声にはとても肯定的なものが感じられて、すっかり楽しくなった武内は
「そうか、そうか。」
と笑顔で頷いた。
「この馬の父もそれはまた実に素晴らしい競走馬だったんだよ。体のラインは細かったけれど、これが実にきれいなシルエットで。わたしは父馬も好きだったけど、この馬も特にまたそこが似てる」
武内が若者にそう話すと
「そうなんですか、初めて知りました!教えていただき、ありがとうございます!」
と若者は目を輝かせて言った。
「本当にいい馬だよ、あの馬は。見ていると何か元気が出てくる」
武内の言葉に触発されて
「はい。おれ、初心者なんで、分かったようなことは言えないんですけど…。見てると胸が熱くなる感じで…」
若者が率直にそう答えた。
「ふふ。いいねえ、胸が熱くなるか。君がたとえ初心者と言ったって、そんなに謙遜することもないさ。最初は分からないのは当たり前。大丈夫、この馬はきっと勝つよ。」
穏やかに武内がそう続けた。
「悪かったね君、邪魔をしちゃって。」
今度はそう若者にはにかむと、もう一度ちらりとアーサーを見て、パドックに背を向けると武内は人混みの中をすり抜けて行った。
「あ、いえ、あの…ありがとうございました」
若者もその背中を見送って、武内に聞こえるように伝えた。
そしてすぐまた前を振り返ると、再びカメラを構えるのだった。
次回予告
所有馬であるアーサーを忍んでパドックから観戦する武内。
一方匠は善男の馬券をしっかりと注意して買うのですが…
はじまりは:競馬小説「アーサーの奇跡」第1話 夏のひかり